エス・エフ小説『ミレニアム・ピープル』J・G・バラード(著)感想  素人の試みる「テロ」という暴力!!無意味という理由!!

 

 

 

ヒースロー空港で発生した無差別爆弾テロ。犯行声明も何も行われなかったこのテロでは、3名の死者が出た。その一人、ローラの元夫であるデーヴィッド・マーカムは、この死には何らかの意味があると思い、独自に調査に乗り出すのだが、、、

 

 

 

 

著者はJ・G・バラード
「これからのSFが描くべきは、外宇宙ではなく内宇宙」との有名なセリフを残す。
主な長篇に
『狂風世界』
『結晶世界』
『クラッシュ』
ハイ・ライズ
ハロー、アメリカ
『楽園への疾走』
『コカイン・ナイト』等。

短篇集も『J・G・バラード短編全集』が全五巻で刊行された。

 

 

本書『ミレニアム・ピープル』は、
『千年紀の民』として刊行された単行本の文庫化作品。

原題は『Millennium People』。
刊行年は2003年です。

本作は、

2001年、9月11日のテロに触発されて描かれた作品です。

 

本書でえがかれる題材は、
そのもの正に、「テロ行為」。

とは言え、
そこは「内宇宙を描くSF」を標榜するJ・G・バラード、

現実のテロを描くというより、
著者独自の世界観と理論が描かれ、
それが興味深い作品です。

 

テロで元妻ローラを喪ったデーヴィッド。

現在の妻であるサリーの勧めもあり、
ローラの死の意味を見つけるべく、
テロの真相を暴こうと、独自調査を始めます。

その独自調査の一環として、
デモに関わったりする内に、

「中産階級は新しい奴隷だ」と標榜するケイ・チャーチルという女性に誘われ、
デーヴィッドは自らもテロ行為に徐々に関わっていきます、、、

 

著者のJ・G・バラードは、
9.11のテロの実行犯が、必ずしも貧困に喘ぐ「狂信者」では無く、
高等教育を受けた若者であったことにショックを受けたと解説に書かれています。

本書のテーマの一つは正にそこにあり、

貧困者だけで無く、
現在においては「中産階級」ですら、生きにくく、
暴力に訴える可能性を描いているのです。

 

しかし、そこだけで終わらないのが本書の面白いところです。

 

また、
『ミレニアム・ピープル』は、

ヒースロー空港の「テロ」を追う内に、
奇妙な内面的な冒険に繰り出すデーヴィッドの一人称の物語です。

そんな本書は、
しっかりくっきり、
(J・G・バラード作品には珍しく)ミステリ的な犯人捜しの面白さもあり、

そういう面での面白さもあります。

 

勿論、
独特な世界観と文圧も健在。

一度読むと抜け出せない、
内面世界への迷宮に繰り出す旅、

 

それがJ・G・バラード作品を読む楽しみであり、
本書『ミレニアム・ピープル』でもそれが存分に楽しめます。

 

 

  • 『ミレニアム・ピープル』のポイント

中産階級が興じる、形骸化された「テロ」

世界が無意味ならば、「無意味さ」のみが意味を持つ

精神の冒険

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 


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  • 内宇宙への冒険物語

J・G・バラード作品は、
その内面的な冒険の過程と結果を描き、

一時的な変容を描きながら、
結局は元の戻る社会の弾性と、

一方で、個人においては、
変容した精神の可塑性の対比を描く事が多いです。

 

いわば、「行きて帰りし物語」。

故郷を出て、
自分の知らない場所、知らない事、知らない人達と冒険をして、
また、懐かしの故郷に帰って来るが、
自分は以前と決定的に違ってしまっている。

『指輪物語』などで、描かれる冒険物語ですが、

J・G・バラード作品は、それを内宇宙、
つまり精神面の冒険として描いているのですね。

 

本書でも、その形式で描かれた精神の冒険です。

さらに、本書が面白いのは、
その精神の冒険を描きながら、
ミステリ的な犯人捜しの読みも出来る所。

「主人公以外は全員知っている」
感じではありますが、
ヒースロー空港の事件の真相が語られるシーンは、ある種の爽快感があります。

いつものJ・G・バラードは、
内面の冒険を描く事で終わりがちですが、
こういった、ちゃんとした終わり方をするのは珍しくも、
時には面白い所です。

 

  • テーマの対比

『ミレニアム・ピープル』には
「テロ」に対する二つのテーマが描かれています。

一つは、無意味さに価値を見出さんとする絶望的な行為

もう一つは、形骸化された行為の一つとして行われる、
レクリエーションとしての「テロ」です。

 

小児科医であるリチャード・グールドは、
先天的な疾患により、
社会や世間から無意味、無慈悲に排除される小児患者の存在に絶望し、

その無意味さそのものに価値を見出そうとします。

その絶望的な挑戦に共感したデーヴィッドは、
彼に段々と惹かれて行くのですね。

それは、自らが追い求める、
「ローラの死」という事と同じだからです。

ローラの死の真相を追う事事態、
そこに意味は無く、
ただ、デーヴィッドとサリーの夫婦の鞘当ての一つに過ぎないのですから。

 

意味の無い事に意味を見出そうとするデーヴィッド。

彼の「ヒースロー空港の事件の調査」は、
いわばポーズであるとも言えます。

そこに共通項があるのが、
ケイ・チャーチルが主導する、
高級住宅地「チェルシー・マリーナ」におけるレクリエーションとしてのテロです。

 

世界の無意味さに挑戦するリチャードのテロに触発されたケイは、
「テロ」に彼女なりの意味を見出します。

それは、「中産階級の解放」という名の元に行われる、
世間に対する反逆行為です。

 

「中産階級を世間のしがらみから解放する」
「住宅ローンや駐車料金、税金に縛られた新しいプロレタリア、それが現代の中産階級」

こう標榜されると、成程、と思わせる部分もあります。

確かに、現代社会においては、
専門的な技術職であったり、中間管理職でも、金銭的に汲々とし、

一部の上級国民のみが富を独占し、
社会自体が地盤沈下を起こしていると言えます。

ケイ・チャーチルはそこを突き、
チェルシー・マリーナの住民を焚き付けて町全体を蜂起させます。

 

しかし、です。

実際にやっている事は、素人の手慰み。

まるで文化祭の演劇、
本人達は、大真面目で真剣だと伝わって来るのですが、
観る人間(第三者)にしてみれば、拙すぎて退屈、というヤツです。

何故なら、ケイの主導する「テロ」は、
中産階級のモラトリアム

高級住宅地に住み、
そこの地代に汲々とする中産階級者達は、
自分達が、新しい形で社会に抑圧された奴隷であると認識するに至っても、
結局は、その生活に縋る事が楽であると、

ちゃんと、「テロ」行為中も認識しているからです。

そこには、
理念的な真剣さは希薄なんですね。

 

よく言われる事に、

1:面白い人が面白い事をやる
2:面白いから人が集まって来る
3:後から来た人が自己主張をする
4:面白い事をした人が、それにうんざりして立ち去る
5:つまらない人間がつまらない事をやりだす
6:つまらないから、人が居なくなる

というヤツがあります。

会社や趣味のサークルの栄枯盛衰のパターンですね。

チェルシー・マリーナも同じです。

1:リチャード・グールドがテロを計画する
2、3:ケイ・チャーチルがそれに触発される
4:リチャードが去る
5:ケイの主導のテロが行われ、住民が煽動される
6:煽動された住民が我に返る

といった経緯を辿ります。

リチャードに触発されたケイは二番煎じ、
ケイに煽られた住民は三番煎じなんですね。

これは、先人の形だけを真似、
「なんだか面白い事をやっているぞ」と思った部外者が、
先人の形だけを真似る事の連鎖が続いた結果、

理念が抜け落ち、
形骸化されたレクリエーションとしての「テロ」行為を消費するに至っているのですね。

 

面白いのは、「無意味さ」という面での共通点。

「無意味さ」を強調する事に意味を見出そうとしたリチャード、

一方チェルシー・マリーナの暴動は、
それ自体が全くの無意味なのです。

 

無意味さを突き詰めようとする行為だったものが、
無意味なもの自体に堕する

 

リチャードのテロであり革命は、
結局の所失敗に終わると、二重の意味で描かれるのです。

(自分のテロ行為も、自分から発生・分岐したテロにおいても)

 

真剣な行為とチャラい行為、

根っこの部分では繋がっている、この二つの「テロ」の対比が、本書の面白さなんだと思いますね。

 

 

 

外宇宙より、内宇宙。

その精神面での冒険を、
本書『ミレニアム・ピープル』では、
無意味な行為に意味を持たせんとする挑戦として描きます。

しかし、その顛末は、
その行為自体が、結局無意味なのだという無慈悲なもの。

そこには、一時の関心しか寄せられないのです。

 

しかし、無慈悲な世界が変わらなくとも、
自分自身はそこに何らかの意味を見出す事が出来る。

信仰を取り戻したデクスター牧師や、
元鞘に収まりつつ、決して見る事の出来ない幸せを夢想するデーヴィッドのように、

行動の後には、
自分自身に変革が訪れる。

そんな事もあるのだと『ミレニアム・ピープル』は描いているのです。

 

 

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