田原秀樹。妻と娘との3人暮らし。順風満帆の日々で、自身のブログ「イクメン日記」はアクセス数も好調で、幸せな日々を送っている、ハズだった。しかし、会社の後輩が謎の体長不良に見舞われ、、、
監督は中島哲也。
主な映画監督作に
『下妻物語』(2004)
『嫌われ松子の一生』(2006)
『パコと魔法の絵本』(2008)
『告白』(2010)
『渇き。』(2014)等がある。
原作は澤村伊智の『ぼぎわんが、来る』。
出演は
田原秀樹:妻夫木聡
田原香奈:黒木華
野崎和浩:岡田准一
比嘉真琴:小松菜奈
比嘉琴子:松たか子
他
志田愛珠、柴田理恵、青木崇高、石田えり 等。
日本ホラー小説の名作を
日本映画界有数の映画監督が手掛け、
それを豪華キャストで映像化する。
期待半分、
しかし、不安半分。
原作小説『ぼぎわんが、来る』のファンが、
映画を観たらどう思うか?
その事を踏まえて、
映画『来る』の事を語ってみたいと思います。
秀樹の地元に伝わる言い伝え
「悪い子は、ぼぎわんが来て、お仕置きされるぞ」
昔話と言われているが、
しかし、
秀樹の子供時代、
実際に行方不明になった女の子がいて、
その子が「ぼぎわん」にさらわれたとの噂があった。
さて、本作は、
基本、原作に忠実です。
しかし、
原作をそのまま映像化しようものなら二時間で収まるものではありません。
そこで、
映画化にあたって焦点を当てたのは、
人間ドラマの部分。
原作における、
印象的かつ、魅力的なキャラクター性を存分に押し立す形を採っています。
確かに、ジャンルとしては、
ホラー映画には類するのでしょう。
しかし、
観た印象として残るのは、
ミステリ的な面白さです。
確かに、
原作も、ホラーの面白さのさる事ながら、
小説という媒体を最大限に活かしたミステリ要素が目を引く作品でした。
面白い原作を映像化する。
良い素材をどう料理するのか?
映画監督、脚本の腕の見せ処ですが、
本作での注目点は人間ドラマ部分という事です。
その意味で、
原作にあったホラー要素は、
やや薄れた感があるのは事実です。
とは言え、
ホラー描写がおろそかになっているのか、
と言えば、そうではありません。
本作のホラー描写は独特です。
特に、
前半の意味の分からない怖さは中々の物。
そして、
クライマックスにおいては、
ホラーというより、
むしろ、お祭り!?
これは、原作には無かった追加要素。
ちょっと、楽しい雰囲気すら漂って、
ワクワク感があります。
面白い原作を、
どう料理したのか?
他人の解釈を観る、
という意味において、
原作ファンが
映画を観ても、
損する部分は無いと思われます。
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『来る』のポイント
視点人物毎のストーリーの変化
本音と建て前
クライマックスのお祭り感
以下、内容に触れた感想となっております
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原作の『ぼぎわんが、来る』、映画の『来る』
本作は、
第22回日本ホラー小説大賞にて、
大賞を受賞した澤村伊智の『ぼぎわんが、来る』の映画化作品です。
(タイトルクリックで、小説版の感想ページに飛びます)
『ぼぎわんが、来る』は、
小説という媒体の特徴を活かした、
ミステリ要素を多分に含んだ、ホラーの名作です。
原作は3幕構成。
第一幕は田原秀樹、
第二幕は田原香奈、
第三幕は野崎の目線でストーリーが進んで行きます。
いわば、主役の3人居る、
連作短篇みたいな印象があります。
その特徴的な面白さは、
先ず、登場人物があっけなく死亡してしまう事。
意味不明の怪異「ぼぎわん」の凶悪さ、
対象を選ばず、
ただ、「秀樹」と関わっただけで死んでしまう恐ろしさ、
そして、
主人公であっても喰われて死亡してしまうという、
安全な人間が居ないという危うさ。
そして、
「幕」が変わる事で、視点人物(主人公)が変わる、
その事による、
人物の印象の変化。
解り易く言うと、
同じ物事でも、
主観(主人公時)と客観(脇役時)では、その捉え方が全く違うという事です。
第一幕では、
イクメンとして家族を守る秀樹のストーリー、
しかし、
第二幕が始まり、香奈の目線になると、
秀樹は、上辺だけ取り繕った、外面だけの軽薄男として描写されます。
この世界観が180度変化する瞬間、
人間は、
主観的な意識において、
如何に自分に不都合な物を切り捨てて生きているのか、
その不都合な真実の暴露が、
『ぼぎわんが、来る』の面白さの重要なファクターであり、
映画版『来る』は、
そこに着目し、
その人間性の身も蓋も無さをさらけ出すテーマとして描写しています。
原作を全て、映画という限られた時間内で描写するのは不可能です。
その「映画」という条件下で、
本作が選んだのは、
原作における「人間性の暴露」の部分でした。
しかし、です。
その人間性の暴露の為に切り捨てた、
原作におけるホラー描写、
実は、
そのホラー描写が、
如何に伏線として重要な機能を果たしていたのか、
その事を映画版を観て気付かされました。
原作では、
第一幕にて、
「ぼぎわん」と秀樹の関係、
その因縁の由来が語られ、
純粋なホラーもの、
理不尽な怪異に立ち向かう主人公という筋立てであり、
その時点で、既に面白さがありました。
そのホラーが、
第二幕の香奈目線で、
「実は、バケモノを呼び込んだのは、秀樹の人間性に拠る」
という事が暴露される、
この、
「バケモノ(超常現象)より怖いのは、実は人間(リアル)」
みたいな印象をより強く読者に与えるのは、
落差があったからなんですよね。
しかし、
映画では「ぼぎわん」と秀樹の因縁、由来部分をバッサリ切ってしまった。
そして、映画版は第一幕の時点で既に、
秀樹の「空回り」は、
ある種皮肉な目線で描写されてしまっています。
『ゴーン・ガール』という映画があります。
原作『ぼぎわんが、来る』の面白さは、それに似ています。
『ゴーン・ガール』も、
前半と後半で印象がガラリと変わる作品ですが、
それは、
前半と後半で、登場人物の内面の描写を、
ちゃんと範囲を決めて、
観客の意表を突く形で明かさす様に構成されていました。
本作『来る』では、
人間性の暴露を描くというテーマに縛られ、
ホラー性を薄めた結果、
第一幕の時点で、秀樹のキャラクターを過剰に描写してしまい、
第二幕での香奈目線でのサプライズが薄れてしまった印象があります。
原作『ぼぎわんが、来る』は、
第一幕でホラー、
第二幕でミステリ的な謎解き、
第三幕で決着、
みたいな大まかな流れがありました。
映画版では、
第一幕と第二幕が地続きになってしまっているのです。
何を描写し、
何に期待するかは勿論人それぞれ、
本作『来る』では、
ホラー描写より、人間性に着目したミステリ部分を重視した為にこの様な印象になりましたが、
原作ファンとしては、
ホラー版の『ゴーン・ガール』みたいな作品を勝手に期待していたので、
その点が少し残念ではありました。
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お祭り騒ぎのクライマックス!!
映画版『来る』では、
ホラー描写はややおざなりな印象を受けます。
先ず、原作のタイトルから「ぼぎわん」を抜いた事。
これから象徴される通り、
本作には「ぼぎわん」の具体的な描写は皆無です。
怪異が起こす「現象」のみの描写に努め、
怪異自身を描写する事を避けています。
ホラー映画を観る時、
モンスターがどの様なビジュアルイメージを持っているのか?
その辺りも期待を込めて観るポイントなのですが、
本作は、
批判されるよりは、
そもそも怪異「ぼぎわん」の描写自体を放棄する形を採っています。
あたかも、
劇中で比嘉琴子が言った台詞
「友人も恋人も作らなければ失う事も無い」を地で行く様な、
「描写しなければ、批判される事も無い」という逃げにも感じます。
本作のテーマ上、
人間が一番怖いという事を描写したかったのでしょうが、
その点も残念ポイントでした。
しかし、そもそも、
本作での怪異は「ぼぎわん」であるのかどうかも、
定かではありません。
「あれ」と巧妙にぼかされています。
その点も原作とはちょっと違う点ですね。
さて、その反動か、
クライマックスでは、原作に無い描写が挿入されます。
それは、
田原家の部屋に「それ」を迎え入れるという場面において、
多数の人間を様々な所から呼び寄せているという事です。
霊媒師、
神主(神道)、
巫女、
坊さん(仏教)
道士(道教)
ユタ(到着出来ずに死亡したオバサン達) etc…
なんでも御座れ、
除霊の大盤振る舞い、
ごった煮、闇鍋、
お祭り騒ぎ!!
言っちゃ悪いですが、
この、雑魚が寄り集まって、
無意味にやられて行く描写が、
バカバカし過ぎて笑えて、
本作でも屈指の奇抜なシーンです。
そもそも、
「迎え入れる」とか言っているのに、
みんなで除霊してたら矛盾するでしょ!!
でも、この矛盾、混沌ぶりがまた、
面白過ぎるシーンです。
ある意味、唐突であり、
意味不明なシーンですが、
しかし、
その傾向はオープニングにて、既に予告されていたのです。
本作『来る』は、
先ずそのオープニングが印象的です。
思えば、中島哲也監督の前作、
小松菜奈のデビュー作だった
『渇き。』も、そのオープニングは特徴のあるものでした。
閑話休題。
本作のエキセントリックなオープニングは、
とある音楽を彷彿とさせます。
私は瞬間、「レッツゴー!陰陽師」じゃん、と思いました。
正式名称は、
「新・豪傑寺一族 ―煩悩解放― レッツゴー!陰陽師」です。
「新・豪傑寺一族 煩悩解放」という対戦格闘ゲーム内の音楽をフルバージョンにして、
3Dアニメのキャラクターが歌って踊る、謎のPVでが、
これが、何故だか、
かつて「ニコニコ動画」にて謎の大流行。
今観ても、奇妙な魅力のあるPVです。
(本家のPVを貼り付ける事が出来ませんが、YouTubeで検索したら普通に出て来るので、是非観て欲しいです)
「レッツゴー!陰陽師」も、
陰陽師(陰陽道)、
巫女(神道)、
坊さん(仏教)が、
何故か息を合わせて歌って踊るという、意味不明なもの。
そして、
踊っている巫女さんの名前が琴姫なのです。
本作で出て来る比嘉姉妹の名前が琴子と真琴。
クライマックスでの、
混沌としたお祭り騒ぎ。
オープニングでのエキセントリック感が、
クライマックスで炸裂する、
その妙な空気感の元ネタは、
「レッツゴー!陰陽師」であるというのは、穿ち過ぎでしょうか?
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配役について
原作ものの、映像化ならではの楽しみそれは配役です。
特に良かったのは、
田原秀樹役の妻夫木聡。
秀樹役は妻夫木聡以外には有り得ないと思わせるベストマッチを観せてくれます。
また、
長い髪を思い切って切った小松菜奈。
中島哲也監督作品でデビューした彼女が、
再び中島哲也作品に出演することで、
イメージを一新して産まれる変わろうとしている様な印象すらあります。
興味深かったのは、岡田准一。
視点人物となる第三幕においては、
「自分の常識の埒外にある怪異に怯える一市民」
を、等身大の演技で表現していました。
普段は主役級の二枚目ばかりを演じ、
そして、本作でも、前半はそのノリの演技でしたが、
素のちょっとビビっている演技も上手いなぁと、
意外な一面も発見出来たのが良かったです。
案外、悪役なんかも似合うかもしれませんね。
野崎も琴子も、
原作と比べると、妙にやさぐれているのが映画版。
原作では普通の人間だった野崎、
「夜の喫茶店勤務」の設定をキャバ嬢とぶっちゃけられた琴子、
最初は違和感がありましたが、
映像という媒体において、
ちょっと極端な方が見映えがする、
そういう意図で、コミック的に派手にしたのでしょうか?
観ている内に気にならなくなるのが不思議です。
原作ファンとしては、
多少の不満点が出て来るのは避けられない所。
本作、
映画版『来る』は、
限られた時間を人間描写に費やし、
ホラー描写はエンタテインメントと割り切って描いています。
同じ作品を読んでも、重要視する所は違う、
そういうやり方、
捉え方もあるというのが興味深いです。
メイン役者の演技、
突拍子の無いクライマックスなど、
原作には無い要素も楽しめる本作。
作品の幅が拡がるという意味では、
こういう映画化もアリなのかもしれません。
*現在公開中の新作映画作品をコチラのページで紹介しています。
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コチラは原作小説です
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