映画『追想』感想  リア充が文字通り爆発してしまった物語!!


 

1962年、イギリスにて。フローレンスとエドワードは結婚したばかり。二人っきりになって、何処かぎこちない二人。そこに、給仕が張り切ってディナーを持ってやって来る。その給仕も去り、いよいよ、初夜を迎えようとする二人の胸中に去来する思いとは、、、

 

 

 

 

監督はドミニク・クック
本作が、長編映画初監督作。

 

原作はイアン・マキューアン
『初夜(原題:On Chesil Beach)』。
本映画化において、脚本も手掛ける。

 

出演は
フローレンス:シアーシャ・ローナン
エドワード:ビリー・ハウル

他、エミリー・ワトソン、サミュエル・ウェスト、アンヌ=マリー・ダフ、エイドリアン・スカーボロー 等。

 

 

本作『追想』の原題は『On Chesil Beach』。

「Checil」とは古い英語で、「玉砂利」を意味する言葉らしいです。

実際に、イギリスにある場所で、
新婚旅行で訪ねる場所の一つとして有名との事。

しかし、
そんな「玉砂利海岸」みたいな題名では味も素っ気も無いと、

邦題は『追想』としたのでしょう。

因みに、原作も『On Chesil Beach』ですが、
これの翻訳小説も、邦題はオリジナルの『初夜』です。

 

そして、それらの邦題の如く、

本作『追想』は、

初夜に望むラブラブカップルが、
結婚するまでのあれやこれを思い出す話です。

 

ハァ!?

何だそれ!!

そんな、人の幸福なんて、
金払ってまで観たかねぇよ!!

 

…という、お怒りの声もごもっとも。

しかし、そこはご安心を。

本作は、

結婚が6時間で破綻したカップルの話なのです。

 

 

どうですか?

俄然、観たくなって来たでしょう?

 

先ずは、
二人のラブラブぶりを、
我慢して、耐えて観ましょう。

その後、

ご期待通りの修羅場が訪れます。

フゥー!!

 

 

人の不幸は蜜の味!

 

若い、ラブラブリア充カップルが、
結婚後、即、分かれる!!

ちょっと~早すぎるよぉ~(ニヤニヤ)

 

観ている方は、

暗いカタルシスを味わえる事、確実です。

 

 

まぁ、
若い二人の恋の物語であり、

いわゆる、
誰もが通る、初恋の物語でもあります。

 

しかし、
そんな真面目な事を言ったり、
建前を披露するよりも、

やはり、

人の不幸でメシウマ状態を味わいたい!!

 

という、
出歯亀的な欲求を満たしてくれる作品と言えましょう。

 

勿論、
真面目に観て、
自分の初恋を思い出すも良し、

ワイドショー的な興味本位で、
人の不幸を味わうも良し、

むしろ、
観る人の恋愛観が問われるのか!?

『追想』とは、そんな映画なのです。

 

 

  • 『追想』のポイント

初恋の幸せと苦味

恋愛と結婚の違い

失敗という経験こそ、生きる糧

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 1960年代、イギリス

本作『追想』の舞台はイギリス。

年代は1962年。

イギリスにおいて、「性の解放」が起き、
社会が劇的に変わったのは、
1963年なのだそうです。

つまり、
『追想』の時代設定的には、

「性」について、
旧態依然とした観念というか、
社会通念みたいなものがあった時代の話なのです。

 

フローレンスの母親が、

娘の付き合っている相手の経済状況や職業を気にするのは、
まぁ、今もある事です。

 

一方、
父親の方は、
こっちが引く程の我が儘ぶりを発揮します。

テニスでたった1ゲーム取られただけで、
娘に当たり散らす。

それに対し、
特に反抗する事無く、相手にしおらしく合わせるフローレンス。

父権が、未だ絶対的な力を持っていた時代なのかもしれません。

また、
ハッキリとは描写されませんが、

どうやら、ボートにて、
フローレンスはかつて、父から何らかの性的虐待を受けていた、
という風にも受け取れる描写でした。

それが、神父に言えなかった「性」の悩みなのかもしれません。

 

ちょっと嫌味な母、

権力を振りかざす父、

そして、「性」について正しい知識が無いフローレンス。

彼女は、
同じく童貞のエドワードと、

「性」について未体験のまま結婚します。

が、、、

 

  • よくある話、なのだが、、、

よく聞く事に、
初体験同士のセックスは上手く行かない
という話があります。

本作『追想』のメインテーマは、
正にこの事。

確かにそうですよね。

一度も自転車に乗った事のない人間同士が、
ぶっつけ本番で、二人乗りの自転車をこぐ様なものです。

中には、
並外れた運動神経で初っ端から上手く行く人達もいるかのしれません。

しかし、普通は無理ですよね。

こけてしまいますよ。

 

しかし、
本作は、実は、こけた事、
つまり、セックスが失敗に終わった事が問題では無いのです。

本作の問題点とは、

お互いが、失敗を許容出来なかった、
その狭量さにあります。

一言でいえば、度量の問題、
人生の経験不足なのです。

 

フローレンスもエドワードも、

その個人的な人生においては、失敗というか、
手痛い挫折を味わった事が無かったのかもしれません。

それが、よりにもよって、初夜で起こった。

そして、お互い、
その失敗を受け入れるより、

怒りに任せて自分の責任を放棄し、
他に、失敗の原因を求めてしまった。

お互いが、
「失敗したのは、自分の所為じゃない」
と、言い訳をしてしまったのですね。

 

エドワードは「三こすり半」どころか、
ハメる前に、暴発。

フローレンスは、
精液を見て「気持ち悪い!」とキレて逃げ出す。

最悪の修羅場です。

 

しかし、

ある程度人生を送った人間なら、

失敗も時にはあるという事が解っています。

人間は、何時しか、
自分の全能性を失ってしまいます

自分が、世の中の主人公では無いと気付いてしまいますが、
その一方、
他人が自分と同じであるという事に気付き、
人に優しくする事が、出来る様になります

そういう人間同士なら、

失敗して、恥をかいても、

頭を冷やしたら、それを笑って許容する事が出来ます。

 

しかし、

未だ自分が主役の人間にとっては、
自分の恥すら許容出来ないなら、

相手の事すら受け入れる事も出来ないのです。

結婚とは結局、
「忍耐と許容」。

ラブラブだから、好きだから、

それだけでは続かないのが実状です。

ガキのメンタリティの二人が、
恋愛の続きのノリでぶっつけ本番に望んだ事が、
そもそもの失敗だったのですね。

 

  • 今なら、どうなのか?

しかし、
この初体験で失敗するという話も、
「性」の情報が抑圧されていた時代ならではの話なのかもしれません。

今や、
ちょっと調べれば、グーグルが何でも教えてくれる時代。

況んや、
セックスの仕方をや。

 

知識は武器です。

物事に当たる時に、事前に覚悟と準備が出来るのは、
大幅なアドバンテージとなります。

そして、
経験は防御力

自らが体験した事なら、
例え失敗に終わった事でも、
それは次に活かせる、

それを繰り返すと、
少々の失敗に動じない体力が付きます。

それが、経験なのです。

 

経験が無くとも、

正しい知識さえあれば、

又は、

「初体験では失敗しがち」という逸話さえ知っていれば、

こんな展開にはならなかったのかも知れません。

 

確かに、
初恋の相手、
初体験の相手は思い出深いものでしょう。

しかし、初めてであるが故に、

例えセックスを乗り越えたとしても、

価値観の違い、
ライフスタイルの違い、
相手との距離感の取り方 etc…

様々な理由で、
初恋は失敗に終わりがちです。

初めてだから、
許容の範囲が掴めないんですよね。

本作はそんな、
多くの人間が直面し、
苦い想いをした初恋の記憶を呼び覚ますからこそ、

そこに共感を産んでいるのです。

 

  • もう一つのテーマ

初恋は失敗に終わる。

それが『追想』のテーマですが、

それだけなら、
「その後の話」は、蛇足です。

しかし、
本作は、敢えて、その蛇足を描いています。
それは何故か?

 

実は、
本作にはもう一つテーマがあります。

それは、
切り替えろ」という事ですね。

 

フローレンスと別れたエドワード。

数年後、レコード店の店長となりますが、
若い頃の夢の「歴史の本」を書いている様子は皆無です。

女性を侍らし、
大麻でも吸ってラリパッパ。

解放された「性」を謳歌し、
ボヘミアンな生活を営んでいる様にも見えますが、

やっぱり彼は、
結婚を失敗したという体験に囚われれ、
半ば「自分はダメなヤツだ」と、自分で自分を嫌悪している様な感じすらあります

 

一方のフローレンス。

どうやら夢が叶って、
自分の楽団をブイブイいわせているご様子。

楽団のメンバーの男とちゃっかり結婚、

いまだに元カレの聞いていた音楽は好きらしいが、
ヤル事はちゃっかりヤっているご様子、

もうけた娘には、昔から付けたかった名前の「クロエ」を命名する始末。

ちゃんと切り替えています

 

そして、フローレンスの楽団のラストコンサートのシーン。

これが秀逸ですね。

エドワードは、
遥か昔自分が宣言した通り、
「C-9」の席に座って、フローレンスを見つめています。

感極まって、滂沱の涙を流しています。

しかし、

一方のフローレンス。

演奏中にエドワードに気付いたご様子ですが、

その表情は「驚き」。

ぶっちゃけ「え?コイツ、何しに来たの?」

というノリでしょう。

昔の約束とか、特に覚えていないと思われます。

この二人の温度差が凄いです。

 

初恋が忘れられず、
かつ、自分の物語の中に浸って感動しちゃってるエドワード。

フローレンスはと言うと、

まるで、
墓から読みがえったゾンビを見るかの様な視線

今更大昔の恋人が現われても、
対処に困っており、

そぞろになって散ってしまった気持ちを落ち着ける為、
家族という現実を見つめて、
動揺からリカバリーしようとしています。

 

心の中の気持ちのキャパシティに差がある感じです。

分かり易く言うと、

男は女に未練があるが、

女は男の事をそれ程想っている訳では無いのです。

 

いくら大事な思い出でも、
一つのことに固執してはいけない、

現実を見て、
次に向かう事もまた重要なのだと、

二人のコントラストから描いているのです。

 

思えば、

フローレンスは、結婚にあたって、
「楽団にはそれを隠している」という逃げ道を予め用意していました。

その用意周到さ、

一つの事(エドワードとの結婚)に失敗しても、

楽団(夢、仕事)や、
別の男(結婚)をキープしており、

人生に冗長性を持たせていたのです。

 

実際には、

おそらく、フローレンス自身には、
結婚が破綻するという予感があったのだと思います。

それは、神父との面談でハッキリしています。

実際には、
それは「性に対する不安」なのですが、

予め逃げ道を作るというフローレンスの行為は、
「不安」を「結婚が破綻する予感」「予言」の様なものに転換する行為であり、

むしろ、
その「予感」を現実化する為に、

「いつ、結婚を破綻させようか」
という計算すらあったのかもしれませんね。

 

自分が相手にしているのは、

強かなモンスターだったのだ!!

エドワードはそれを理解していたのか?

それは、断じて否でしょう。

 

 

 

 

本作『追想』は確かに、
初恋や初体験のぎこちなさを表現し、

観客自身の感情を呼び覚ます事で、
その共感を得る作品だと言えます。

しかし、
その反面、

失敗しても、一つの事には拘らず、

切り替えが早い、強かな人間の方が、

人生、脚光を浴びる事になるのだよ、と警告している様でもあります。

 

素直に観るか、

ちょっとひねくれた目線で観るか。

ほら、

清楚で透明感のあるシアーシャ・ローナンですが、

よく観ると
典型的なサブカル女子にも見えるでしょう?

単純な様であっても、

観る人間によって如何様にも解釈の使用がある、

『追想』とは、そういう映画なのだと思います。

 

 

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こちらが、原作本の『初夜』です。

 


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