映画『サスペリア』感想  母は何者の代わりになれるが、何者も母の代わりにはなれない!!


パトリシアは心理療法士のクレンペラーの元に訪れる。彼女は、所属する舞踏団が「魔女の館」だと訴え、極端に怖れていた。1977年、アメリカからベルリンのその舞踏団へ、少女スージーはオーディションを受けにやって来た、、、

 

 

 

 

監督はルカ・グァダニーノ
イタリア出身。
主な監督作に、
『ザ・プロタゴニスト』(1999)
『ミラノ、愛に生きる』(2009)
『胸騒ぎのシチリア』(2015)
君の名前で僕を呼んで』(2017) 他。

 

出演は、
スージー:ダコタ・ジョンソン
マダム・ブラン:ティルダ・スウィントン
サラ:ミア・ゴス
パトリシア:クロエ・グレース・モレッツ
クレンペラー博士:ルッツ・エバースドルフ

他、
ジェシカ・ハーパー、エレナ・フォキナ、アンゲラ・ヴィンクラー、イングリット・カーフェン

 

 

本作は、
ダリオ・アルジェント監督作『サスペリア』(1977)のリメイク作。

私はオリジナルは未見ですが、
パンフレットによれば、
単なるリメイクというよりは、
ルカ・グァダニーノ的に再構築されたアレンジ・バージョンとの事。

監督は、
長年、この企画を温めて来て、
念願の映画化を実現したそうです。

 

さて、そんな本作『サスペリア』。

変な映画作ったな~

 

というのが一見の印象です。

 

スージーはオーディションにてマダム・ブランの目に留まり、
抜けたメンバーの替わりに、
主役に抜擢され、訓練を受けます。

しかし、
舞踏団の教師連中は、ダンス以外の何かを期待している様子。

所属メンバーが次々を居なくなる、
この舞踏団の真の顔とは、、、?

 

 

最近の映画は、
ホラーでも、アクションでも、
ストーリー展開を重視し、
破綻無く、理路整然とした作品作りを目指している印象があります。

しかし、本作は違います。

怪しい場所で、人が死ぬ!?

それも、意味不明に!!

 

観客は、
口を開けて「ポカーン」としながらも、
訪れるショッキングなシーンに目を剥く事となります。

 

初っ端の展開は、
少々眠くなる感じ。

しかし、
一人犠牲者が出た辺りから、
物語のサスペンスが増します。

 

オリジナル版の『サスペリア』は、
色彩の美意識に凝った作品だという評判を聞きました。

本作でも、
そういった

「美意識」に拘ったビジュアルイメージを感じる事が出来ます。

 

統一された、抑えた色調、

「静」と「動」のメリハリの効いたダンスのシーン。

 

何か、変な事やってる?

でも、ドキドキして、面白い!?

そんな印象からの、

クライマックスのカタストロフ!

 

インパクト抜群のラストの盛り上がりだけでも、
本作を観る意味があると言うモノ。

 

ハッキリ言って、
意味が分からない。

でも、恐怖とはそういうもの。

そんな事を教えてくれる映画、
それが『サスペリア』なのです。

 

 

  • 『サスペリア』のポイント

色調やダンスに観られる美意識

理不尽さの、ホラー

クライマックスのスプラッタ

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 


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  • サスペリア

本作『サスペリア』は、一見、
意味不明、理不尽、理解不能であり、

しかし、
それがホラーとしての面白さの担保となっています。

何故なら、
人間は、自分が理解出来ないモノに、恐怖を覚えるからです。

 

何が起きているのか、分からない。

だから、怖い、面白い、
それが本作なのです。

 

しかし、
その理解不能の恐怖とは、
観る側、被害を受ける側の視点であり、

実は、
作った側、被害を与える側からしたら、

彼達なりの明確な理由・理論が存在するのです。

故に、
観る側(被害者)の我々と致しましては、

作品に独自の解釈を導入する、
ヤル側の理論を理解する事で、

作品の恐怖を、
多少なりとも昇華する事が出来ます

 

その作業がまた、
ホラーを観る、読む上での醍醐味の一つとなるのがまた、

何といいますか、
因果なジャンルだと思います。

 

事実、
本作『サスペリア』は、
オリジナル版『サスペリア』(1977)を観た監督のルカ・グァダニーノが、

オリジナル版を自己の中で昇華した事によって生まれた作品。

本作は、
監督自身が、オリジナル版を観た印象を、
自作の『サスペリア』として構築し直しているのです。

つまり、
作品に込められた意図、設定があっても、

それを観客がどう受け止めるかは、
各自の自由

それを、監督自身が体現しているのです。

 

さて、
では、
本作を読み解くにあたってポイントとなるのは、何か?

私の解釈では、
先ず
第一に、「サスペリアとは?」

第二に、「RFA」

第三に、「クレンペラー博士」

それぞれについて、考え、解釈してみたいと思います。

 

  • マダム・マルコスとマダム・ブラン

『サスペリア』を観て、
先ず思う事は「何が起きているのか解らない」、
という事です。

それでも本作は、
深く考えずに観ても面白いというのが、凄い所。

 

スージーのダンスに合わせて、
踊る様に体がねじ曲がるオルガ。

ちんちん丸出しの巨漢を前に、
はしゃぎ回るマダム連中。

何故か惨殺される、
ダンス組織のメンバー達。

何が起きているのか解らず、
説明も無い、
それでもインパクト絶大なシーンばかりです。

 

しかし、実は、
作中、本作の事を端的に表すセリフがあるのです。

詳しくは忘れましたが、
クレンペラー博士がこの様な趣旨の事を、サラに言っていました。

組織というものは、儀式によって連帯感を得て、目的を達成する」と。

 

本作の舞台となる舞踏団「マルコス・ダンス・カンパニー」、
戦時中も女性の権利を断固主張し、守り切ったという過去があると言っていました。

しかし、
舞踏団は、世を忍ぶ仮の姿。

しかして、その実態は、
マザー・サスペリウムを信仰(?)する、カルト集団だったのです。

 

元々、マザー・サスペリウム信仰における、
儀式の一形態として存在していたのが、
あの独特の舞踏なのだと思われます。

組織として、一体感をもたらす、それによりトランス状態をもたらす舞踏。

本来は、信仰の手段だったものですが、
それを対外的に芸術という形で表現したのが、
「マルコス・ダンス・カンパニー」の踊り、
「民族」その他の演目なのでしょう。

この事は、
クライマックスでのマダム・マルコスの「これは芸術では無い」というセリフで解ります。

あくまで、儀式の手段として舞踏を認識しているマダム・マルコス

一方、マダム・ブランは、
舞踏そのものの芸術性を追求するあまり、
手段が目的化してしまったのです。

本作は、
その本筋の背景に、
組織として、マダム・マルコスとマダム・ブランの「舞踏感の違い」という対立軸があります。

 

組織内で、権力者として長年君臨して来たマダム・マルコス。

その彼女が年老いて、死にかけているので、
替わりのボディを用意しようとした。

その才能のある者=ダンスの上手い者を用意するが、
悉く失敗してしまう。

それが、連続失踪事件の真相です。

マダム・ブランとしては、
ダンスの才能ある若者を無駄に消費する事に抵抗がありますが、

マダム・マルコス(とその派閥)は、
マルコスを生かす為の生贄を拒む事は本末転倒だと、
マダム・ブランのスタンスに憤っているのです。

 

そこに現われる天才スージー。

彼女をマダム・マルコスの依り代にしたいマルコス派と、

彼女をダンサーとして鍛え上げたいマダム・ブラン。

本作では、組織について詳しく語られませんが、
しかし、
その組織内は一枚岩では無いのです。

語らず、
進んで行くストーリーから推測させる構成になっております。

初見では気付かずとも、
最後まで観て、逆算して考えると、意味が通る部分が多い

そこが、
本作の魅力の一つでもあります。

 

  • マザー・サスペリウム

しかし、そのスージー。

クライマックスで正体が明かされます。

母親のセリフ
「私の一番の罪は、末の娘(スージーの事)をこの世に生みだした事」

スージー自身のセリフ
「She is me」(でしたっけ?「I am her」でしたっけ?うろ覚えですみません)

このスージーの言う「彼女」とは、

筋組織剥き出しで干からびて、
血だらけになって歩いていた、あのクリーチャー、
即ち、
「マザー・サスペリウム」と思われる存在の事です。

つまり、スージーはマザー・サスペリウムなのです。

 

え?
どういう事?

「彼女は私って、二人は別の存在なんですけど!?」
と、思われるかもしれません。

この事について、
理解を促す、丁度良い例えがあります。

それは、
マザー・サスペリウムとは、スージーのスタンドなのだという事です。

 

「スタンド」とは、
日本の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』に出て来る概念で

「超能力を擬人化(具象化)した存在」です。

「スタンド」とスタンドを使う「本体」は一心同体。
片方が傷付けば、もう片方も傷付くという一蓮托生のペアなのです。

 

この映画に当て嵌めて言うなら、

「マルコス・ダンス・カンパニー」は、
スタンド使いの巣窟なのです。

幻覚使い、
記憶操作、
千里眼、

教師連中はそれぞれ、特殊能力を持っています。

マダム・ブランは、
「人の才能を別の人間に移す」辺りでしょうか?

 

そして、マザー・サスペリウムがスージーのスタンドだと解釈すると、

最初のショッキング、
オルガのくねくねシーンも理解出来ます。

スージーは踊ってる風で、スタンドを遠隔操作で操っていた

しかし、
スタンド使いでは無い我々には、
オルガに何が起きているのか、解らなかったのです!

恐らく、
マザー・サスペリウムがボコっていたハズです。

クライマックスのシーンで、
マザー・サスペリウムが見えたのは演出であり、

我々にもマザー・サスペリウムが見えている時、
映像には赤い膜がかかっていました

 

では、
スージーはどの時点から、自分がマザー・サスペリウムだと気付いていたのでしょうか?

確実に言えるのは、

パトリシアの足跡を探すサラのスパイ行為に、スージーが付き合った場面。

そこで物音に気付いたスージーは、
舞踏団の捜査に来た警官が、
ちんちん丸出しでマダム連中にいたぶられている場面を覗き見します。

異様な状況、異様な場面。

舞踏団の不正を探しに来た、
それなのに、あからさまに怪しい場面を、スージーはサラには教えません。

それどころか、
「いいもの見ちゃった」と言わんばかりに、
可愛く微笑んでいます

ちんちん丸出しより、
スージーの反応の方が、よっぽど異様な場面です。

 

その後、スージーは、
舞踏団の異様さに怯えるサラに、
「心配ない」という旨の発言を繰り返します。

つまり、
その時点では、既にスージーの意思はマザー・サスペリウムと殆ど同意だったと思われます。

では、
いつからスージーはマザー・サスペリウムだったのか?

私は、
そもそも映画の最初の段階から、
スージーはマザー・サスペリウムの意思を反映していたのではないかと思います。

では、
舞踏団に入団して、嬉しそうにしていたのは、演技なのかというと、そうではないのです。

スージーとしての意思がありつつ、
無意識下では、マザー・サスペリウムの意思を反映していた
それが、本作でのスージーなのだと解釈しています。

というか、
スージーは、生まれた時から、
無意識下にてマザー・サスペリウムの影響を受けていたのでは?

それが、
スージーとマザー・サスペリウムの意思が、徐々に重なり合い、
クライマックスの儀式で、
遂に覚醒したのだと思われます。

 

さて、
スージー=マザー・サスペリウム
という観点で、ストーリーをまとめますと、
『サスペリア』はこうなります。

 

 

以下、ネタバレありの私の本作のストーリー解釈となります。

 

 

舞踏団に憧れ、
アメリカからドイツにやって来て、入団したスージー。

彼女のダンスの才能と潜在能力を見抜いたマダム・マルコスは、
死にかけの自分の肉体を捨て、
スージーを依り代として復活せんとしていた。

一方、
「マルコス・ダンス・カンパニー」にて、
マダム・マルコスの対抗馬となっているマダム・ブランは、カリスマダンス教師。

マダム・ブランは、
ダンスの芸術性を追求しており、
スージーをダンサーとして鍛え上げたい。

しかし、
舞踏団の代表はマダム・マルコス。

彼女の意思が反映され、
パトリシア、オルガ、サラといった、
才能あるダンサーを生贄に捧げ、
遂に儀式は成立し、
スージーは自分の意思で、その儀式の場にやって来ます。

儀式によって、
マダム・マルコスは、スージーに乗り移るハズでした。

しかし、
スージーはマダム・マルコスの依り代となるべく儀式の場に来たのでは無く、

彼女は、儀式によって、
無意識下で反映していたマザー・サスペリウムというスタンド能力に、完全に覚醒する為にやって来たのです。

マザー・サスペリウムに選ばれたというマダム・マルコス。

彼女は、その権威を傘に着て、
マダム・マルコス自身を信奉するように信者を誘導していました。

マザー・サスペリウムはその事に怒り、
マダム・マルコスとその派閥を粛正する為に、
儀式を逆に利用し、スージーを依り代として現世に顕現したのです。

そして、地獄のスプラッタが幕を開ける、、、

 

とは言え、
スージーは事態を全てコントロールしていた訳ではありません。

仲良くなったサラが生贄になるのは、本意では無かったと思われます。

それは、
「民族」の講演の時、しきりにサラの行方を気にし、
そして、
サラが生贄に選ばれたと知って、驚愕した表情を浮かべていた事でも分かります。

 

まとめると、
「マルコス・ダンス・カンパニー」内は、

マダム・マルコス派、
マダム・ブラン派に加え、

そこに単身乗り込んだ、
スージーたる、マザー・サスペリウム、

この3つの対立軸があった、

その視点、各自の思惑が絡まり合っているのが、
本作なのです。

 

  • RAF

さて、
本作『サスペリア』では、
本筋とは別に、
その時代背景を表す要素として、
「RAF」関連のニュースが、しばしば挿入されます。

 

「RAF」とは、ドイツ赤軍の事。

Wikipediaを参照しますと、
1968年結成、
西ドイツにおける、極左の民兵組織、テロリスト集団。

グループの中心となった人物の名前から由来し、
「バーダー・マインホフ・グルッペ」とも呼ばれました。

本作では、
パトリシアの失踪の理由付けとして、
彼女がRAFとして活動していた、
と対外的には説明されています。

 

映画の舞台となった1977年、

RAFは「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」を起こしました。

航空機を丸ごとハイジャックし、
刑務所に収監されているRAFメンバーの釈放を西ドイツに要求したのです。

しかし、
西ドイツはテロリストとは交渉しないという立場を取り、

10月17日、23時05分に救出作戦を決行。
(航空機が着陸していた現地のソマリアでは既に10月18日)

ハイジャック犯4人の内、
3人を射殺し、乗客に被害を出さず、救出しました。

その報を受け、
刑務所内のRAFメンバーは3人が自殺、
さらには、
RAFに拉致されていたドイツ経営者連盟会長のハンス・マルティン・シュライヤーは報復で殺される事となります。

 

時系列的に、本作と絡めますと、
クライマックスが起こったのは、
1977年、10月17日だったと、判明します。

 

当時、ベルリンは、
冷戦下において、西側と東側が分割統治しており、

西側から見ると、
東ドイツ領内に囲まれた「飛び地」でした。

ドイツという国が西と東に分割され、
その東ドイツ内のベルリンが、
さらに西と東に分割され、
その西ベルリンにて東側としてRAFは活動していました。

 

まるで、マトリョーシカ人形の様に、
入れ子構造の状況ですが、

その状況、
本作における、

「三人の母」の内、マザー・サスペリウムを信奉する組織内で、
マダム・マルコス派とマダム・ブラン派があり、
そこに新しく加入したスージーが騒ぎの中心となる。

と、いう構図と、
少し、似ていると思います。

 

時代背景の不安定さ、
土地柄の複雑な状況、
それが、作品に反映していると言えるでしょう。

 

  • クレンペラー博士

最後の要素は、
クレンペラー博士。

彼は、第四の視点人物。

本作においては、
いわば、観客の代わりとして、映画内に存在しており、
それ故、
クライマックスにて立会人として参加する事になります。

 

第二次世界大戦において、
妻・アンケとはぐれて、そのまま会えずじまいとなったクレンペラー博士。

彼は、西ドイツの診療所から、
しばしば検問所を通り、東ドイツ側の、自分と妻が暮らしていた家を訪れます。

未だに、忘れられない。

もしかしたら、家に居るかもしれない。

そう思っているのですね。

そんな彼の元に、
映画の冒頭、混乱したパトリシアが訪ねて来ます。

その後、荷物を残して、パトリシアは失踪しますが、
クレンペラー博士がしきりにパトリシアの行方を気にしていたのは、
職業倫理のみでは無く、

「妻を見捨て、自分だけ逃げたのではないか?」という罪悪感に、
未だに苦しんでいるから
女性を見逃しには出来無かったのだと思います。

また、
パトリシアが、アンケ(と思われる)写真を、倒し、
博士にアンケを思い出させたのも、
その理由の一つだと思われます。

 

妻への想いを利用され、
儀式の場におびき寄せられたクレンペラー博士。

(因みに、アンケを演じたのは、オリジナル『サスペリア』にてスージーを演じたジェシカ・ハーパー

彼は、その場で「私に罪は無かった」と叫び、
許しを請います。

マザー・サスペリウムの顕現の後、
博士は解放されます。

記憶操作されている節がありますが、
その彼が、先ず想うのは、
虐殺現場の理不尽さでは無く、
やはり、妻・アンケの事でした。

殺戮の事よりも、
幻覚といえどもアンケと再開した事の方が、彼の記憶に残っていたのです。

 

そんな彼を救済するのが、
マザー・サスペリウムとして覚醒したスージーです。

「嘆きの母」と言われるマザー・サスペリウム。

その現世への顕現の場に、立ち会ったのが、
人生を「嘆き」の下で過ごして来たクレンペラー博士。

スージーは、
アンケがナチスの強制収容所で死んだが、
その死においては孤独では無かったと告げます。

アンケの行方を想い、長年苦しんできた博士の苦悩を、
解消させるのです。

 

自らを信奉している風で、
その実、マダム・マルコスを信奉していた異端者には、
虐殺でもって応えたマザー・サスペリウム。

しかし一方で、
「嘆き」に囚われ、その人生を送って来た、
謂わば、
「嘆き」の信奉者であるクレンペラー博士には、救済を与えるのです。

 

クレンペラー博士は、真実を知り、
その直後、痙攣します。

そして、
自らの中から「嘆き」が取り払われ、
故に彼は、
「嘆き」信仰の対象である、スージーが見えなくなったのです。

 

マザー・サスペリウム。

現在となっては、
その原初はどの様な信仰だったのかは分りませんが、

「母は、何者にもなれるが、何者も、母の代わりにはなれない」

母を騙った者には死を、
母を慕う者には救済を、

時には厳しく、
時には優しく、

必ずしも絶対悪とは言えない側面があると解るのです。

 

 

 

監督が、自らが好きな作品を、
大胆にアレンジして作ったという『サスペリア』。

色調やダンスシーンの美意識。

意味不明な人体損壊の理不尽さ。

クライマックスでの一大スプラッタ。

理由無く、
派手に突っ走った様に見えて、
実は、ラストから逆算すると、
その意図が判明するという構成。

 

ホラーという、
「意味不明の恐怖」を描きつつも、

監督自らの、
オリジナル『サスペリア』解釈をも盛り込んだ本作。

これを観た観客が、更にどう解釈するのかは、
各人に任せてある、

『サスペリア』は、そういう作品なのだと思います。

 

 

現在公開中の新作映画作品をコチラのページで紹介しています。
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コチラは、原作、リメイク、双方の『サスペリア』について述べたマガジン

 

 

コチラは原作のオリジナル『サスペリア』(1977)です

 


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