映画『未来を乗り換えた男』感想  不安、恐怖、羞恥心、罪悪感、そして、諦念という名の絶望


 

ファシズムの台頭により、母国のドイツから逃れたゲオルク。しかし、滞在先のパリにもドイツの侵略軍がやって来る。港町のマルセイユへと逃れ、そこから亡命したいゲオルクは、小銭稼ぎの為に、作家のヴァイデルに手紙を届けに行くのだが、、、

 

 

 

 

監督はクリスティアン・ペッツォルト
ドイツ出身。
監督作に
『東ベルリンから来た女』(2012)
『あの日のように抱きしめて』(2014)等がある。

 

原作はアンナ・ゼーガースの『トランジット』。

 

出演は
ゲオルク:フランツ・ロゴフスキ
マリー:パウラ・ベーラ

バーテンダー/ナレーター:マティアス・ブラント 他

 

 

 

原作者は、ドイツ人。

そして、監督もドイツ人。

本作は、ドイツ映画です。

しかし、
恥ずかしながら、
私は過去にドイツ映画といえば、
『カリガリ博士』(1920)くらいしか観た記憶がありませんでした。

他の映画も観てたっけ?
と、思ってちょっと調べてみたら、

本作の監督、クリスティアン・ペッツォルトの過去作、
『東ベルリンから来た女』を観ていました。

そして、面白かった覚えがあります。

 

とは言え、
本作の舞台は、フランス、マルセイユ。

という事で、
フランス映画っぽい印象を受けました。

何となく、
フワッとして、漠然とした、不安。

 

作中、その、
曰わく言い難い不安、緊張感が持続します。

 

 

ゲオルクはパリのホテルに滞在しているという作家のヴァイデルに、
妻からの手紙を届けに行く。

しかし、
ヴァイデルは、ホテルのお気に入りの部屋で自殺していた。

成り行きでヴァイデルの遺作を手に入れたゲオルクは、
マルセイユにて、
ヴァイデルを招いていたメキシコ領事館に、その遺作を渡して謝礼を受け取ろうと思い立つ。

しかし、
メキシコ領事は、ゲオルクをヴァイデル自身と勘違いして、
出国ビザを渡すのだった。

思いがけず、
ゲオルクに助かる道が開かれるのだが、、、

 

 

さて、
本作の原作は、1943年に脱稿。

実際に、作者のアンナ・ゼーガースは、
マルセイユ経由で、メキシコへ亡命しています。

つまり、原作は、作者の実体験を活かして著された、
第二次世界大戦時の話なのですが、

本作は、

それを、
「現代」っぽい時代に設定し直しています。

これにより、
「今」では無い時代、
「ここ」では無い何処か、

そういう

寓話的な不思議な印象を、
本作は醸し出しています。

 

 

迫り来る戦争の気配に怯える人々、

彼達が迎える、数奇で儚い運命を描く、
それが、
『未来を乗り換えた男』と言えるのかもしれません。

 

 

  • 『未来を乗り換えた男』のポイント

第二次世界大戦時でも、今でも無い、時代設定

港町、マルセイユに集まる人々の行く末

人生とは、選択の物語

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 過去でも、今でも無い時代

『未来を乗り換えた男』の原作『トランジット』は、
1943年の作品。

時代設定は第二次世界大戦時の状況を描いています。

 

しかし、
本作では、それを現代「風」の時代に変更しています。

服装、街並み、軍の装備など、
舞台設定は現代を思わせるのですが、

登場人物が語っている社会状況は、
やはり、第二次世界大戦時であるという印象を受けます。

現代でありながら、
今では無い。

この、設定とストーリーの祖語が、
「今」では無い時代、
「ここ」では無い場所、
そういう寓話的な印象を演出し、

時代を設定しないが故に
本作は、そのテーマ、ストーリーを語るにあたって、
普遍性を獲得する事に成功しています

 

原作との違いと言えば、

原作は、一人称の語りだそうですが、
本作では「謎のナレーター」が入ります。

これが、
中々どうして、面白い。

列車でマルセイユに向かうシーンから、
突然挿入されるようになるナレーション。

最初は主人公のゲオルクの回想の語りの様に思われます。

しかし、
語り口が、客観的な第三者目線であると、後に気付きます。

更に、
バーのシーンにて、
客の反応云々、というナレーターのセリフが出るにあたって、
「あ、バーテンダーの目線なのね」
と、察する事になります。

しかし、
ナレーターであるバーテンダーが、
ストーリー上に登場するのは、ラストシーンのみ。

あくまで本筋では、
背景のモブキャラの一人として埋没しています。

 

ゲオルクや、
他のマルセイユへやって来た亡命志願者達は、

皆、不安や後悔、葛藤や、罪の意識などに苛まれています

それを、
バーテンダーという地元の人間が、
ある種安全な立場から、客観的な目線で眺め、もっともな意見を差し挟む

このバーテンダーのナレーションが、
却って亡命志願者達の絶望を際立たせているのです。

 

昔の社会状況を、今風に置き換えた舞台設定で、
主人公目線に加え、第三者目線を挟みつつ、ストーリーを語る。

本作は、
そういう重層的なレイヤーを重ね、
それらを対比、或いは、融合させる事で、テーマ、ストーリーに不思議と普遍性を与えている

そういう作品なのです。

 

  • 亡命者達

本作には、主人公のゲオルク意外にも、

フランスを徐々に侵略して行くドイツのファシズムから逃れようと、
港町のマルセイユから他国へと亡命せんとする人達が集まっています。

 

さて、まず、
亡命志願者は、どんな人達なんでしょうか?

単に、思想的に、ファシズムに相容れない人、
なのでしょうか?

ドイツ軍はIDの提示を求めていた為、
いわゆる、
フランス人以外の不法滞在者を狩り立てている様に見えます。

 

印象的なのは、
冒頭における、パリでのゲオルクの逃亡劇。

逃げるゲオルクが「あっちに行った」と、
大声でチクるマダムがいたり、

また、
逃亡し、ほとぼりが冷めるまで待機していた場所の近くでは、
黒人のカップルがイチャイチャしていました。

チクりマダム、黒人カップル、
そしてマルセイユでのバーテンダーや、ホテルの女主人、
彼達フランス人にとっては、
ドイツ軍の侵略に怯えるというより、

その進軍は他人事、

むしろ、日常生活に邪魔な不法滞在者を拘束してくれる者達として、
歓迎している節すらあります

自国を侵略し、
人を狩っているドイツの軍隊に対して、
何とも薄い反応。

人は、
自分の日常生活に影響が無ければ、
どんな非道な事も看過し得るという恐ろしさを描いています。

(勿論、匿ったり、協力したりすれば、ドイツ軍から咎められる、そういう「触らぬ神に祟りなし」の心理が働いているという側面もあるのでしょうが)

 

また、ゲオルクはユダヤ系の様ですし、
単にユダヤ人を狩り立てているのかもしれません。

どちらにしても、
フランス人の反応は薄いんですよね。

 

さて、
そうして集まった亡命志願者。

メキシコや、アメリカ領事館での描写がまた、出色です。

公務員って、
何処の国でも、あんな態度なのですね

上から目線というか、
尊大な態度というか。

しかし、
相手が偉そうな態度を取っても、
領事にビザを出してもらわねば、
出国出来ない志願者達は、
それに媚びなければなりません。

書類を出す、出さないも、
私の胸先三寸なんだぞ
と、公務員は思っているのでしょうね。

 

そんなビザ待ちの人達、
お喋りが好きな男性、
犬を連れた婦人など、様々な人がいます。

彼達に共通しているのは、
不安や、恐怖。

そして、
マルセイユでのホテルにて、
ドイツ軍に連行される他人を、見捨てる事しか出来ない、自分達に対する羞恥心を抱えているのです。

非道な行いをする相手より、
される被害者側が、自分を恥じ入り罪悪感を覚えるという理不尽

 

しかし、
逃亡生活にあたって、
不安や恐怖、羞恥心、罪悪感より、厄介な感情があります。

それは、「諦念」です。

犬を連れた婦人は、
金銭的に困窮し、
最後に贅沢をして、自殺してしまいます。

又、
ゲオルクと知り合った、
ドリス、メリッサの親子は、

ゲオルクに心を開きつつあっても、
彼が自分だけ亡命するという事実を知り、

そして、
自分達は助からないという事実を突き付けられ、

ドリスは怒り、
そして、親子は唐突に姿を消します。

 

「諦め」は人を殺し得る

ゲオルクはそれを知り、
そして、ある種の自己嫌悪に陥ったのでは無いでしょうか。

彼も、罪悪感を抱えるのです。

そんな中、出会うのが、
自分が、図らずもIDを奪い取ったヴァイデルの妻である、
マリーなのです。

 

  • マリーとゲオルク

マリーは恐らく、
医者のリヒャルトと不倫し、
彼と逃げる為にヴァイデルを捨てたのでしょう。

それを知ったヴァイデルは、自殺します。

しかし、
夫の自殺を知らないマリーは、
罪悪感からか、ヴァイデルに固執し、

手紙を出し、
領事館巡りをして、ヴァイデルを探し回っています。

 

捨てた方と、捨てられた方、後悔するのはどっちか?

本作では、逃亡生活という状況において、
罪悪感を抱える事になる「捨てた方」が、より後悔を覚えているのですね。

 

ヴァイデルのIDを奪ったゲオルク。

ドリスへの往診依頼を契機に、
リヒャルトの下に身を寄せていながら、
ヴァイデルを探すマリーを、
ゲオルクは逆に見つけます。

彼がマリーに惹かれたのは、
その外見からか?
自分がヴァイデルになりすましている、その背徳感からか?

それらもあるでしょうが、

私が思うに、
自分の配慮の無い言葉で、
ドリスを傷付け、
そして、捨てる事になったゲオルク。

ドリスを捨てた彼は、
同じく、
ヴァイデルを捨て、しかしその後、後悔と罪悪感で、夫を捜し回るマリーに、
自分の鏡像を見た

だから、惹かれたのだと思います。

 

夫そ捜し回り、
一向に出国しないマリー。

罪悪感で二人が繋がっていると思ったゲオルクは、
彼女を救う事で、
自分の罪悪感をも解消しようとしたのでしょう。

 

ついに、マリーは出国を決意し、
ゲオルクの下へやって来ます。

ですがそれは、
ゲオルクの思いが通じたのでは無く、
マリーがアメリカ領事から、
ヴァイデル(のID)も出国し、同じ船に乗るという情報を得たからだったのです。

 

ヴァイデルのIDを奪いながら、
決してヴァイデルでは無いゲオルクは、

同じく、
決して自分はマリーを救えないという事を悟ります。

結局、マリーの希望は絶対に叶わない、
その事をゲオルクは知っているからです。

ゲオルクは、
リヒャルトに自分の乗船券を渡し、
マリーと共に行く事を促しますが、

それは決してリヒャルトを慮った為では無く、

ゲオルクが「諦め」を感じてしまったからなのです。

 

しかし、
ゲオルクは、マリーやリヒャルト、その他亡命者が乗った船が、
ドイツの機雷にやられて、沈没したとのニュースを聞きます。

「諦念」が「絶望」まで深化した時、
人は死を選びます
あの、犬を連れた婦人の様に。

しかし、
マリーの地縛霊?幻像?をお告げの様に見てしまったゲオルクは、

「もしかしてマリーは、ヴァイデルを捜して、船から降り、まだマルセイユに居るのではないか?そして、ヴァイデル=自分を見つけてくれるのではないのか?

そういう一縷の希望に縋り、
ギリギリ、絶望にまでは至っていません。

 

バーテンダーから見れば、

マルセイユまで進軍し、
不法滞在者を狩っているドイツ軍から、身を隠さないゲオルクの行動に、
違和感を覚えるでしょう。

しかし、
マリーが、夫ヴァイデルを捜す事に希望を見出していた様に、

ゲオルクは、
マリーが自分を見つけてくれる事に希望を見出している
だから彼は、
バーで、ただじっと座っている事が、
最後の生きる望みとなっているのですね。

 

しかし、
幻覚のマリーは、
自分を見つけても、
まるで知り合っていない時と同じ様子で、立ち去っていました。

ゲオルクも、
本能、深層心理では、
マリーは決して、自分をヴァイデルとして見ない。

そう彼自身理解しているのです。

敢えてそこから目を逸らす、
決して報われない希望に縋るゲオルクに、
もの哀しさを覚えます。

 

 

 

最初に、
フワッとした印象は、フランス映画に似ている、
と書きました。

しかし、
明確な結末に至っている辺り、
それがドイツ映画たる所以なのかもしれません。

 

第二次世界大戦時の状況を、
現代に置き換えて設定し直す事で、

絶望に蝕まれる人間を、
普遍的なテーマとして描いた『未来を乗り換えた男』。

諦念が、如何に人を殺すのか、

そして、
人は諦念に殺されない為に、
存在しない一縷の望みにすら縋る。

その様子を描いた、
無常観溢れる作品と、言えるのではないでしょうか。

 

 

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