教師のジェマと庭師のトムは恋人同士。新居を探しに、仕事帰りにちょっくら不動産屋に寄ってみる。
そこで、作り笑いが不気味な業者のマーティンに誘われ、新興住宅地「ヨンダー」の「9番」の家を内見に行った二人。
しかし、気付けばマーティンは居なくなり、画一的に、同じ家がズラッと並ぶ区画に、二人は取り残されてしまう、、、
監督は、ロルカン・フィネガン。
アイルランド、ダブリン出身。
出演は、
トム:ジェシー・アイゼンバーグ
ジェマ:イモージェン・プーツ
マーティン:ジョナサン・アリス
少年:セナン・ジェニングス
青年:アイナ・ハードウィック 他
さて、皆さん、ちゃんと毎年、健康診断を行っていますか?
人間、30代までは元気でも、
不惑を超えると、次第に体のあちこちが不調を訴えだして来ます。
そんなこともあってか、
40歳以降は、健康診断での「上部消化管X線検査」が推奨されます。
食道、胃、十二指腸などを調べるこの検査は、
所謂、バリウム検査として知られているモノです。
「バリウムは不味い!」と、よく言われますが、
最近のバリウムは、程よくイチゴの味付けされていたり、
また、
前日から食事を制限し、当日は飲まず食わずでいる為、
意外と、
ゴクゴク飲んでしまったりもします。
しかし、バリウムというモノは、体内に消化されないので、
その後、排便時、
白いウンコが出るのです。
しかも、その白いウンコ、
便器の中で、いつまで経っても居座り続け、一向に排水管の中に流れて行く気配がないのです。
便器ブラシとかで、上手いこと潰さないと、
その後、一週間は白いウンコを見続ける事になってしまいます。
バリウム検査とは、そんな危険性を孕んだものなのです。
ハイ、という訳で、
本作『ビバリウム』の紹介です。
「ビバリウム」とは、
ちょっと聞き慣れない言葉ですが、
勿論、バリウムと関係がある訳では無く、
google翻訳を元にまとめますと、
観察、研究またはペット飼育の為に、
動植物を、
自然に準拠した環境として作った、
容器、囲い、構造物の事
だそうです。
水槽の事を、「アクアリウム」と言ったり、
陸の動物を入れたガラス容器を「テラリウム」なんて言うのを、聞きますよね。
「ビバリウム」は、その「~リウム」のシリーズで、
総合的な自然環境を再現した箱、といった印象です。
何だか、意味を知ってしまうと不穏な感じがしますが、
その予感は正しく、
本作を、簡単に言ってしまえば、
密室的状況による、
不条理サスペンススリラー
といった趣なのです。
不動産会社の案内人のマーティンが去り、
画一的な住宅街「ヨンダー」に取り残されてしまったトムとジェマの二人。
どうやっても出口が解らず、
同じ所をグルグル回っているのか、
「9番」の家に結局戻ってしまう。
やがて、車もガス欠し、
仕方なく、「9番」に泊まった二人。
その翌朝、家の前に置かれた段ボールに気付く。
中には赤ん坊(男子)が入っており、
「育てれば解放される」とのメッセージが添付されていた、、、
家(の周辺)から逃れられない!
このワンシチュエーションでゴリ押しする力技!
何が凄いかって、
これを、上映時間の98分間、観客に飽きさせずに鑑賞させている所なんです。
何故なら本作、
「どうして」こんな事になったのかは解らないのですが、
「何」が起こっているのかは、理解出来るからです。
意味不明なのに、
描写が淡々と、理路整然としているので、
展開自体は、解り易い。
登場人物と共に、不快感を味わう事が出来ます。
悪夢が起こっている様を、淡々と観察出来る作品、
本作『ビバリウム』は、そういう映画と言えるでしょう。
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『ビバリウム』のポイント
理路整然とした悪夢
画一的な幸せへの批判
観察者
以下、内容に触れた感想となっております
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除菌された悪夢
本作『ビバリウム』は、
ワンシチュエーションで描くサスペンススリラー映画です。
一見、謎がちりばめられている様で、
その実、映像や展開で、解り易く「ほのめかして」くれる作品ですので、
不快感が際立っています。
これがミステリ作品なら、事件の「原因」の因果関係をハッキリさせる事が重要ですが、
原因自体は曖昧なままでも、結果の無惨さを強調させれば良いのだというスタンスで、
ホラー作品の作り方をしているのです。
そう言ってしまうと、
それでもう、解説が完結してしまう位、
本作は理路整然としています。
まるで、
作中で描かれる、
真空パック状態で届けられるが、味がしない毎日の食事の様に、
碁盤目の様に並んでいるのに、出口が無い「ヨンダー」の街並みの様に、
風も吹かず、雲も動かず、隣人も居らず、塵一つ落ちていない、
本作からは、
神経質な、除菌された悪夢という言葉を、彷彿とさせます。
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「悪」夢のマイホーム
そんな本作で、
最も解り易く描かれる、
皮肉というか、批判というものは、
「夢のマイホーム」幻想と言えるのではないでしょうか。
人生の目的として、
恋愛し、
結婚し、
子供を授かり、
マイホームを購入する。
こういう「画一された幸せのテンプレ」に乗っかる事への批判が、
本作には嫌という程込められています。
監督のロルカン・フィネガンは、
パンフレットにて、こう言っていました。
マイホームの購入が、終わらないローン返済の始まりであり、
結果、一生働くハメになると、
持ち家を購入する事が必ずしも幸せでは無く、
販売員の口車に乗って、罠にかかったのだと言えるし、
プラスチック製品でパックされた食事をし、
自然を破壊して、似たり寄ったりの街並みを作って、
TVなどのメディアが垂れ流す、訳の分からぬ事で洗脳されてしまっている、
そういう現代人の画一された生活に、
批判と皮肉、警鐘を鳴らしています。
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カッコウ
親は、
子供が居てこそ、初めて親というものになれる。
そう、言われています。
本作『ビバリウム』ではしかし、
覚悟も決意も自覚も無いままで、
「育児」を無理矢理押し付けられたカップルは「親」には成れないし、
子供も、
親の影響より、
本やTVというメディアを使って、外から勝手に取り入れた知識によって育ち、
結果、
親からすると、
子供は、自分の人生において邪魔な存在、憎むべきエイリアンにしか見えなくなる。
家庭や子育て、子供といった、
次世代に「生」を繋いで行くという、
生物が負わされる責任に対する、
ある種、根源的な恐怖と忌避感をこの作品は描いているのです。
その解り易い例えとして、
本作は冒頭にて、カッコウをイメージとして描写しています。
カッコウは、
別の種類の鳥の巣に、勝手に卵を産み付ける
(その時、親のカッコウは、数あわせの為に元からあった卵を一つ排除する)
托卵という行為を行う事で有名です。
元の巣の卵より先に孵化するカッコウのヒナは、
元からいた卵やヒナを蹴り出し、
自分だけを育てさせます。
そして、
巣の親は、
自分より大きな、明らかに変な状態の「カッコウの」ヒナに、
せっせとエサを運んで育てる事になるのです。
本作は冒頭で、
カッコウが托卵し、結果、
元の巣のヒナが蹴り出される様子が描かれます。
巣から落ちて、死んだヒナを見つけて、悲しんでいる児童に対し、
教師のジェマは「自然の摂理」だと慰め、
庭師のトムは、
落ちたカッコウを地面に埋めるのです。
後の二人の運命は、
この冒頭に集約されており、
トムは、カッコウを埋めた様に、
自分で地面に掘った穴の中に埋められるという、
正に、墓穴を掘り、
ジェマは、
托卵という、奇妙な弱肉強食の厳しさに、
憔悴してしまいます。
カッコウの托卵の様な、
アンファン・テリブル(「子供」に対する恐怖)を描いた作品に、
クリストファー・リーヴが主演した映画『光る眼』(1995)があります。
『光る眼』も、
急成長する、エイリアン的な子供の恐怖にさらされる作品であり、
『ビバリウム』には、『光る眼』の影響が見て取れます。
『光る眼』は、
『未知空間の恐怖/光る眼』(1960)のリメイク作品であり、
その原題はどちらも『Village of the Damned』(呪われた村)です。
原作は、
ジョン・ウィンダムのSF小説『呪われた村』であり、
この、原作の原題は『The Midwich Cuckoos』(ミドウィッチ村のカッコウ)なのです。
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ビバリウムを眺める観察者
では最後に、
何故、トムとジェマ(や、他のカップル達)は、
謎のエイリアンを育てる事になったのでしょうか?
論理的に考えれば、
大がかりなセットを作って、
育てるのはたった一人(一匹)というのは、
コスト的に割に合わない気がします。
しかし、実は、このシステム、
エイリアンの不動産販売員「マーティン」を育てるという事は副産物で、
実は、
容器の中に人類を入れて観察する、
つまり、ペットとして飼育しているというのが、主目的であると思われます。
人間が、
爬虫類や、魚類を、
プラスチック容器に入れて趣味で育てる、
その感覚なのです。
それは何より、
本作の題名が「ビバリウム」である事が物語っており、
その囚われた人類を観察する、
悪趣味なエイリアンというのは、
勿論、
我々、映画を観る観客自身であるのです。
この多重的メタ構造において、
本作は、観客という観察者を作品の中に取り入れる事で完結し、
故に、
観客は、本作を鑑賞後、えも言われぬ不快感に苛まれるという構図になっているのです。
ワンシチュエーションの密室サスペンススリラーである『ビバリウム』。
本作の元ネタの一つ、『光る眼』はコチラ
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