映画『天気の子』感想  美麗映像で送る、セカイ系ボーイ・ミーツ・ガールは、世界への叛逆!!

東京に出て来た家出少年の帆高(ほだか)は、所在なく街を彷徨するが、ひょんな事から知り合いになった須賀に拾われて居候となる。雑誌にてライターをしている須賀の手伝いをする帆高は「100パーセントの晴れ女」という都市伝説を知る。そんな折り、帆高は陽菜(ひな)という少女に出会う、、、

 

 

 

 

監督は新海誠
空前のヒットとなった『君の名は。』(2016)で、
一気にメジャーとなった。
他の監督作に、
『ほしのこえ』(2002)
『雲の向こう、約束の場所』(2004)
『秒速5センチメートル』(2007)
『星を追う子ども』(2011)
『言の葉の庭』(2013)がある。

 

声の出演は、
帆高:醍醐虎汰朗
陽菜:森七菜
須賀圭介:小栗旬
夏美:本田翼
凪:吉柳咲良
冨美:倍賞千恵子 他

 

 

 

二本映画史に残る大ヒットとなった、
『君の名は。』(2016)。

日本での興行収入は、
歴代4位(2019/07/19 現在)。

世界興行収入を加えると、
日本映画でのナンバーワンヒット作となっております。

その大ヒットは、
当然、称賛と嫉妬が入り交じる、
毀誉褒貶、相半ばする評価を生みました。

世間的には、
大ヒットでもてはやされながらも、

評価的には、
映画専門誌や、
SF誌からは、
不自然な程の、無視を決められる始末。

 

そんな新海誠が、
ヒット後、何を作るのか?

大注目の一作が、
本作『天気の子』という訳です。

 

その本篇前の、映画の予告篇上映時、
なんと、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の映像が!!

公開は、2020年6月!!

おおっ!?

いやいや、
上映前に、エヴァで話題を持っていくなや!!

 

閑話休題。

 

あらためまして、
そんな注目の最新作『天気の子』においても、
新海誠が求める、
彼独特の作風は健在。

美麗な背景映像、
水の表現、
音楽への拘り、

ボーイ・ミーツ・ガール、
そして、出会った二人が、
触れる事の叶わない距離感の物語。

 

昔からのファンも、
『君の名は。』で新海誠を知った人も、

作風は、本作でも変わらず健在なので、

本作も楽しめる事は間違いありません。

 

そういう、確固とした形式を持って作られた、
ストーリー部分はどうだったのか?

本作は、

東京という華やかな舞台で、
決して、
メインストリームに出る事の無い、

家出少年と、
貧乏少女、二人の物語。

必然、

世界、世間に対する叛逆の物語、
即ち、
ストレートな青春ストーリーとなっております。

 

 

前作『君の名は。』では、
多数の評価を得た新海誠。

その一方で、
多くの批判も得ましたが、

監督の耳に入るのは、
特に、批判の方が多かったのだそうです。

人間、
良い事を言われるより、
批判の方が耳が痛く、記憶に残りやすいもの。

新海誠としては、

結果を残しているにも関わらず、
自作を批判した世間に対して、
アンチテーゼを打ちだした、

本作は、
そんな監督自身の叛逆心を反映したものとなっております。

 

この世間に対するルサンチマンは、
物語の制作者としては、
正しい精神構造。

評価というぬるま湯に浸る事なく、
敢えて、
より、批判にさらされるであろう作品を仕上げる。

 

大ヒット作品の次作にて、
こういうアナーキーな問題作を作り、発表する、

そんな、新海誠の姿勢に、
驚愕を覚えます。

 

本作は、
前作以上に、
賛否両論巻き起こるであろう作品。

しかし、
今、観るべきであるのは間違いありません。

要注目の『天気の子』、
本作も、必見と言えるでしょう。

 

 

  • 『天気の子』のポイント

隅々まで行き渡った美麗映像

ボーイ・ミーツ・ガールのセカイ系物語

愛する人と、世界を、天秤に掛ける

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 毀誉褒貶、賛否両論、相半ばする事間違い無し

空前のヒット作となった『君の名は。』。

日本国内では映画興行収入第4位。

世界興行収入を加えると、
日本映画というカテゴリにおいて、
歴代ナンバーワンヒット作となりました。

いわば、
『君の名は。』にて天下を獲った新海誠。

これを受けて、
次作、何を作るのか?

本作『天気の子』において、
新海誠は、

攻めに攻めた内容を打ち出しました。

厨二、
まさに、厨二、
俺が正しく、世間が悪者という、

真っ只中の青春ストーリーを作ってしまったのです。

 

『天気の子』は、
物語の起承転結に則った、
作劇としては、基本的な作り。

起:少年少女が出会い(ボーイ・ミーツ・ガール)
承:晴れ女の能力を活かして交流し
転:警察に追われ、陽菜が消失し
結:世界より、陽菜を選ぶ

この、決断の部分(結)が、
尖っているのです。

最愛の人を選ぶか、
最大多数の最大幸福を選ぶか?

帆高は、なんと、
自分の欲求つまり、陽菜の生存を選び、
東京を水没させる事を選ぶのです。

 

ここで言う「最大多数の最大幸福」とは、
いわゆる、

ベンサム哲学の功利主義における「最大多数の最大幸福」を、
その主張を勘案する事無く、

言葉通りに捉えた、
短絡的な意味においての「最大多数の最大幸福」。

つまり、本作に当て嵌めて言うと、

陽菜一人の犠牲にて、
東京の天気の異変を解消出来るなら、それは良いことだ
とする考え方の事です。

 

作中、須賀は言います。
「一人の犠牲で良いなら、それを選ぶだろ」と。

哀しい事に、
当事者では無いのなら
実際、須賀の言う通りの選択を、
我々(=世間)は採ってしまうでしょう。

つまり、
犠牲が一人で済むなら、その一人に背負わせる(死んでくれ)と言うのです。

 

映画『風の谷のナウシカ』(1984)にて、
主人公のナウシカは、
王蟲の暴走を食い止める為に、
風の谷の巫女として自己犠牲の献身という死を選びます。

監督の宮崎駿本人は、
結局、ナウシカに自己犠牲を強いる事になったストーリー展開は、
大戦中、若者に死を強いた日本の悪しき風習を踏襲したものだとして、自己批判をしていた、
と、私は記憶しています。

 

本作の選択は、それとは真逆。

そして、それ故、
結果も真逆のものとなっているのが、興味深いです。

『風の谷のナウシカ』では、
自己犠牲の後、奇跡が起こり、
戦乱は終結、
目出度し目出度し的な大団円となります。
(その時のみ、ですが)

逆に、
『天気の子』では、
自己犠牲を拒絶した為に、
奇跡、それ自体が起こる事無く、
故に、
世界自体に、その重みを背負わせる事になるのです。

 

とは言え、
ナウシカと、陽菜とでは、
その状況が違います。

ナウシカは、
覚悟を以て、自己の責任を全うする事を選びます。

一方の陽菜は、
状況任せの結果、
いつの間にか、逃れられない一線を越えてしまっていたという、
強いられた役割だったとも言えるのです。

 

思えば、
陽菜や帆高は、
社会や世間から見た所の、
アウトサイダーとして存在しています。

東京という華やかな印象の首都にて、

帆高は住所不定の家出少年、
陽菜は、保護者不在の未成年、

どちらも、
社会からは「居ない者」として扱われてしまう存在です。

彼達の境遇は、
何処か、
昨年の『万引き家族』(2018)を彷彿とさせるものがあります。

都会に生きながら、
その底辺で、明日をも知れぬ生活を強いられる弱者達

帆高と陽菜は、
その象徴である事を、
本作を観る場合には、忘れてはいけない要素なのだと言えます。

 

帆高は選択し、決断します。

帆高は、
「もう一度だけ、あの人(陽菜)に会いたい」
という願いだったハズが、
そこから一歩踏み込み、

実際、陽菜と再会すると、
世界を犠牲にしても、陽菜の復活を願う事になるのです。

それは、
自分達を虐げ、解ってくれなかった世間(=世界)の為に、
何故、
自分達が、その責任を負わなければならないのか

そういう、
普段、世間から喰いモノにされている弱者の悲痛の代弁であり、

故に、帆高は、
陽菜一人に、重荷を背負わせるのでは無く、
東京に住む、全ての人間に背負わせる事を決断するのです。

 

本作で、
警察という公権力が、
むしろ、
一見、悪者の様に描かれるのは、
そういう転倒した価値観による為。

しかし、
社会的な観点からすると、
須賀や、刑事達の主張が、本来は正しいし、

帆高の選択の結果、
老婆の冨美の様に、住むところを逐われる人も多数、現われたハズです。

しかし、それでも、本作は、

たった一人でも、弱者の犠牲により成り立つ社会の在り方というものを、
否定する立場を採るのです。

 

社会の幸福、他者との関係性、ルールより、

個人の幸福を選ぶ。

それは、未だ、子供である帆高だからこそ、
出来る選択であり、

しかし、そういった利己主義は、
結局は、
現在、世界的な潮流を生みだしている、
トランプ的なポピュリズムに通底するものであると言えます。

 

私個人の主張としては、

作品の面白さは「良」でも、
本作における主張には「否」を唱えねばなりません

弱者に犠牲を強いて存続する社会など、
確かに、クソ喰らえ、ですが、

しかし、

それを言う資格のある者とは、
社会に対する「responsibility」義務や責任を全う出来る者に限られるからです。

人間、窮極においては、
ある種の苦肉の決断を、
自らの断固たる意思において、下さねばならない

私は、そう思います。

『風の谷のナウシカ』のナウシカや、
『DEATH NOTE』(2003~2006)のメロの様に。

 

私は、
作品としては、本作を支持しつつ、
それでいて、主張を支持出来ないのは、

作品の影響力を考えた故です。

幼少期に影響を受けた、
漫画や映画、小説は、
意外と、大人になって、その個人の人格形成の一部になっている事が多いです。

本作で描かれるのは、
「弱者の世間に対する叛逆」ですが、

観た人間は、それを敷衍して、
「利己主義の肯定」と捉えるかもしれません。

 

人生の窮極において、
社会に対する責任を果たさず、

利己主義における「逃げ」を選択する人間が、
本作の影響により、将来、現われないだろうか?

物語の力を信じる私としては、
それが不安であり、

新海誠は、
自らの影響力を、過小評価しているのではないか?

そう私は思うのですが、どうでしょうか?

 

とは言え、本作の救いは、
ラストシーン、
陽菜が、雨の坂道にて、祈りを捧げていた所。

彼女は、
既に巫女の力を喪った、

世界より、
自分が選ばれた為に、東京は水没した、

そう知っていて尚、
祈る事を辞めていません。

彼女自身、
帆高の選択に「否や」は無くとも、

その結果、訪れた世界に対しては、
責任感を感じているのです。

自らが招いた世界に措いて、
自分達は、責任を持って、その中で生きて行く

そういう意思を最後に見せた、
陽菜と帆高に、希望は見出せます。

 

正に、賛否両論、

このアナーキーな作品が、

世間で、どんな評価を受けるのか?

今後の毀誉褒貶の旋風にも、
注目したい作品と言えます。

 

  • キャラのあれこれ

本作『天気の子』には、
ゲストキャラクターが出演していますね。

同じ世界線のキャラクターかは、解りませんが、
『君の名は。』の、

立花瀧(声:神木隆之介)が、
冨美老人の孫役で登場し、

陽菜の誕生日プレゼントを帆高が購入する場面で、
宮水三葉(声:上白石萌音)が登場しています。

どうやら、
三葉の妹の四葉も出ていた様ですが、
私は、それには気付かず。

何処?
何処にいたの!?

 

さて、本田翼が演じた、夏美というキャラクター。

夏美は、
ピンクナンバーを付けた、ピンクのカブを乗り回しています。

ピンクナンバーは、
排気量が125cc以下なので、
二人乗りが可能。

そして何故、
夏美は「カブ」に乗っていたのでしょうか?

自動車・バイクメーカーの「ホンダ」の二輪車のロゴには、
「翼」が付いています。

本田翼(本名)の名前の由来は、
そのホンダの「翼」のロゴから来ているそうです。

そういう経緯で、彼女のYouTube の公式チャンネルの名前も、
「ほんだのばいく」となっております。

なので、
「ホンダ」の二輪車において最も有名な「カブ」を、
本田翼が演じる夏美に乗せた、
という、メタ的な設定であるのです。

 

それを踏まえて考えると、
夏美の叔父(伯父?)である須賀の名前が「圭介」なのは

もしかして、
ケイスケホンダこと、
元、サッカー日本代表の本田圭佑から来ているのかもしれませんね。

 

 

 

『君の名は。』でもそうでしたが、

本作においても、
語られない設定、背景があります。

何故、帆高は家出したのか?
廃ビルの屋上の鳥居の由来は? etc…

しかし、
それらの説明描写をバッサリ切る事で、
伝えたい、描きたい事を絞っています。

ボーイ・ミーツ・ガールがあり、
触れ得ぬ別れの距離感を描き、
世界への叛逆を宣言する。

 

大ヒット後の次作は、
必ず、批判にされされるもの。

それなら、
敢えて自分から、
批判が巻き起こる事が確実な、
アナーキーな問題作を作るという無鉄砲ぶり。

 

この世間に対する叛逆こそが、

本作『天気の子』を成立させている、
最も重要なファクターだと、
私は思います。

 

さて、世間の評価はどうか?

公開後の評判も含め、楽しみな作品と言えます。

 

 

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