劇作家コンラッド・アープの戯曲「アステロイド・シティ」。それは…
1955年、かつて、隕石が墜落した観光名所の「アステロイド・シティ」は砂漠の町。ここで、ジュニア宇宙科学賞の受賞式があり、5人の子供とその家族などが集まっていた。そして、天文ショーの夜に、思わぬ事が起きる、、、
監督は、ウェス・アンダーソン。
監督作は、
『アンソニーのハッピー・モーテル』(1996)
『天才マックスの世界』(1998)
『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001)
『ライフ・アクアティック』(2004)
『ダージリン急行』(2007)
『ファンタスティック Mr.FOX』(2009)
『ムーンライズ・キングダム』(2012)
『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)
『犬ヶ島』(2018)
『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(2021) 等がある。
出演は、
オーギー・スティーンベック/ジョーンズ・ホール:ジェイソン・シュワルツマン
ミッジ・キャンベル/メルセデス・フォード:スカーレット・ヨハンソン
スタンリー・ザック:トム・ハンクス
ウッドロウ:ジェイク・ライアン
ダイナ:グレース・エドワーズ
ギブソン元帥:ジェフリー・ライト
副官:トニー・レヴォロリ
ヒッケンルーパー博士:ティルダ・スウィントン
モーテルの支配人:スティーヴ・カレル
???:ジェフ・ゴールドブラム
コンラッド・アープ:エドワード・ノートン
シューベルト・グリーン:エイドリアン・ブロディ
ソルツバーグ・カイテル:ウィレム・デフォー
妻/女優:マーゴット・ロビー
司会者:ブライアン・クランストン 他
皆さんは、観る映画を決める時の基準って、ありますか?
私には結構あって、
一番参考にしているのは予告篇で、
ピンと来た映画を楽しみに観に行ってます。
他にも、
原作が好き
気になる役者が出ている
変な雰囲気のホラー映画 とか色々あります。
更に、特別カードとして、
お気に入りの監督の作品は無条件に観に行くというのがあります。
本作『アステロイド・シティ』の監督
ウェス・アンダーソンも、その一人。
そして恐らく、
この「ウェス・アンダーソン作品」だから無条件に行くという固定客は、
結構居るのではないかと思われます。
何と言うか、
クセがあるけれど、
美味い料理、
そんな感じが、ウェス・アンダーソン作品。
で、
本作『アステロイド・シティ』はどうなのかと言いますと、
やっぱりいつもの、ウェス・アンダーソン作品
パステルカラー
箱庭感
おかしみとユーモア
ちょっとハチャメチャで
入れ子構造
う~ん、変わらないこの味、
最高ですな。
また、
ウェス・アンダーソン監督は、
お気に入りの役者を使うのが好きで、
所謂、
スターシステム
を採用しています。
演劇や興行においては、
花形役者を中心に据えて、
企画や広告、プロモーションを行い、
「個」を重点的に売り出す手法です。
が、
ここで言うスターシステムとは、
漫画家の手塚治虫が多用した手法で、
読み切り短篇漫画で、他作品のキャラクターを出演させ、
元の作品とは別人でありながら、同じ顔の人物を、
似た様な登場人物として描き、
別の読み切りでも、何度も(再び別人として)登場させる手法です。
そう、本作にも
いつもメンバー、所謂、
ウェス・アンダーソン作品の「イツメン」が集結しています。
ティルダ・スウィントン
エドワード・ノートン
ジェフリー・ライト
トニー・レヴォロリ etc…
いつもの趣、
いつものメンバー、
それを観に行く、いつもの観客。
それが
ウェス・アンダーソン作品です。
…こう言っちゃうと、
一見さんお断り的に思われるかもしれませんが、
ご安心を。
基本的には、
雰囲気オシャレ映画
なので、そういう系が好きな人にオススメです。
また、本作は、
結構、ゆる~い感じの内容なので、
寧ろ、
ウェス・アンダーソン作品初見の人にもオススメ
ユーモア、ペーソス、アイロニー満載で、
「いとおかし」といった所
難しい事は考えずに、
何処に向かうのか解らない方向性に困惑しつつ、
雰囲気の面白さを堪能する。
そして、
興味が湧いたら思い出して、
「あ、そういえば、あのシーンのあれは、こんな意味だったのかも!?」と
色々と考察してみるのも、
良いことなのです。
それで嵌って行くって訳です
ウェス・アンダーソン作品のワールドに!!
それが、『アステロイド・シティ』なのです!!
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『アステロイド・シティ』のポイント
ユーモア、ペーソス、アイロニーで、趣のある作品
箱庭感と、入れ子構造
イツメンでお送りする、いつもの面白さ
以下、内容に触れた感想となっております
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箱庭映画、入れ子構造
本作『アステロイド・シティ』は、
箱庭映画です。
限られた場面、シチュエーションで、
物語が進行するタイプの作品。
実際に、
本作の登場人物達は、
人口87人の砂漠の町に、
意図せず閉じ込められてしまいます。
又、
物語の設定上の「箱庭感」だけで無く、
「舞台劇の映像化」という構造面での設定でも、
「箱庭感」を演出しています。
こういう箱庭映画は、
ともすれば、閉塞感に囚われがちですが、
本作には、それがありません。
寧ろ、解放感すらある、
このアンビバレンスが面白い所です。
さて、何故、箱庭映画なのに、
解放感があるのか。
それには、大きく二つ理由があります。
一つは、空の青さです。
本作、私は、その殆どがセット撮影かな、と思ってました。
しかし、
「アステロイド・シティ」の描写場面は、
実は、セットでは無く、
スペインのチンチョン郊外に、
実際に撮影現場を作り上げたものなのだそうです。
ウェス・アンダーソン作品は、
パステルカラーがその特徴。
真っ青な空は、
てっきり、セットかと思っていました。
これが現実の光景だなんて、
俄には信じられませんが、
だからこその、ロケ地に選んだのでしょうね。
広漠な赤い大地(砂漠)と対比され、
余計、青空が際立ち、
故に、解放感がもたらされます。
また、ストーリー展開の面において、
本作は「空」というか、
科学の発明や、天体観測、
また、「隕石が落下した観光名所」
そして、エイリアンの来訪といった、
「宇宙」要素により、
むしろ「空」を超えて、
無限の天体への拡がりの可能性すらかんじられます。
この辺りも、
本作が閉塞感を打ち破っている要因だと思われます。
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入れ子構造
もう一つは、
本作が、ウェス・アンダーソン監督の作品でのお得意の手法、
入れ子構造であるという点です。
先ず、
1955年のアメリカ南西部「アステロイド・シティ」の話があり、
次に
舞台「アステロイド・シティ」製作に当たって、
劇作家、演出家、出演者、ワークショップの面々などの、
苦悩や事情を描くパート
そして、
「舞台、アステロイド・シティ」製作秘話のTV放映(をする司会者)
という3段の入れ子構造になっているのです。
(で、それを観ている観客という4段構成でもありますが)
因みに、
二つ目の階層(パート)は、
所謂、
実話系のTV番組でよく見る、
再現ドラマ的なものを意識していると思われます。
つまり、
劇作家コンラッド・アープ本人というより、
コンラッド・アープ役を演じている役者、
という可能性もあると思います。
勿論、ストレートに
メタ的に、コンラッド・アープ本人かもしれません。
さて、本作においては、
この入れ子構造が効果的に働いています。
観客は、
この入れ子構造の階層を行き来するストーリー展開において、
作品をメタ的に眺める事になります。
故に、
これは、映画の登場人物の限定的な状況だな、
と考えるより、
寧ろ、
メタ目線が混入する事により、物語を俯瞰的に見る事が出来、
故に、
自分の人生と対比して共感するに至るという効用があります。
無垢で無邪気な幼児、
可能性に満ちた子供時代、
不意に出会った異性との恋、
子育てや配偶者との別れに苦しむ親、
孫や娘婿との微妙な関係を受け入れる祖父 etc…
自分の境遇と、
何らかの共通点があるのではないでしょうか?
物語に於いて、
そういう「共感」出来る点を見つけたなら、
その作品は、観客にとっては身近なものとなります。
故に、
入れ子構造によるメタ目線の導入は、
それが成功すると、ダイレクトに観客の感情に訴える事になります。
この、
入れ子構造による、
階層を超えるダイナミズムが、
「アステロイド・シティ」という小さな箱庭の町を、
閉塞感無く、感じられるのだと思われます。
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何故、火傷したのか
「アステロイド・シティ」のオーギー役を演じたジョーンズ・ホール
(を演じるのはジェイソン・シュワルツマン)
は悩みます。
「何故、オーギーは火傷したのか?」と。
「オーギーの火傷」とは、
「アステロイド・シティ」の階層において、
オーギーとミッジ・キャンベルは関係を持つのですが、
ミッジは、
「これは進展しない仲」と言います。
それに対し、
オーギーは「Oh…」と呟き、
急に、トースターに手の平を載せます。
直前に、パンを焼いていたトースター。
当然、オーギーは火傷する、という場面です。
これに、
オーギーを演じているジョーンズ・ホールは、
悩みます。
「何故?こんな事を」と。
本作はその冒頭、
TV番組の司会者が
舞台「アステロイド・シティ」
→を製作する時の苦悩の様子
→をTVで放映する
という階層があるという事を、
明確に宣言して開始されます。
故に、
多少の苦労、違和感があれど、
オーギーとジョーンズが別人であると、
理解出来るし、
そこに、
役を演じる、作品を作る時の苦悩があるのだという描写に、
納得も出来るのです。
さて、
「アステロイド・シティ」のパートのクライマックスシーン
オーギーは舞台を飛び出し、
瞬時にジョーンズ・ホールになり、
自分の出番が来るまでの僅かな時間で、
「やっぱり、火傷した理由が知りたい」と
演出家に相談します。
演出家は答えは出ないぞ、と言いつつも、
ジョーンズを宥めますが、
しかし、納得せず、
外の空気を吸いに行くと、
カットされた場面で、妻役を演じた女優と、
偶然、出会います(相手も別の舞台の最中に一服中だった)。
そこで落ち着いたジョーンズ・ホールは、
再び、舞台に戻ってオーギーを演じるのですが、
彼は、何に、納得したのでしょうか?
詳しく、説明されませんが、
私の解釈では、
演じられる表面上の設定以外にも、
役の人生には拡がりがあると、理解出来たからだと思います。
説明すると、
舞台に於いては、
オーギーと妻のやり取りはカットされています。
しかし実際には、
妻との美しい思い出があり、
それなのに、
妻の死から間もなく、
他の女性と関係を持ち、
それが、行きずりの関係になりそうだという状況に、
再び、女性関係を失うという失望感で、
又は、
自分の節操の無さに、感情のうねりが沸き起こり、
それで、それを忘れる為に、衝動的に行動した、
のかも、しれません。
結局このシークエンスは、
役者に悩ませているのと同様、
観客自身にも、考えて欲しいというシーンだと思います。
故に、
その答えは、
観客が自分自身で見つけるものなのでしょう。
「オーギーの火傷」は、
解り易い問いかけですが、
本作には他にもそういう問いかけというか、
シュールなシーンがあります。
例えば、
宇宙人と接近遭遇した翌日、
ギブソン元帥が会議を開きますが、
その直前、
政府機関っぽい男が「ピコピコ」と
電子音的な声真似をします。
意味不明ですが、
何らかの意味があるのかも?しれません。
他にも、
大道具部屋に住み込んでいるという、
舞台演出家のシューベルト・グリーンのシーン。
ボクシングのトレーニングに使われる、
天井つり下げ式の「スピードボール」という用品があるのですが、
シューベルト・グリーンは、
すぐ隣にスピードボールがあるのに、
それを使わずに、
何故か、その横で、
スピードボールを打つ振りをします。
昔子供が、
天井つり下げの蛍光灯のスイッチ紐を
パチパチ叩いて遊んでいましたが、
それと同じ要領で、
エア・スピードボール打ちを開始したのです。
これも、意味不明で困惑するシーン。
ギターがあるのにエアギター、
注文したカレーが来たのに、それを食べずにエア食事、
そんな感じです。
舞台演出家だから、
実際にヤル事と、
役を演じる事を分けた、そのメタファーなのか?
こういう細かい仕掛けに込められた解釈も、
観客それぞれが答えを出す、
そこに、
本作の面白さがあると思うのですが、どうでしょうか。
一見、
雰囲気オシャレ映画。
で、
実際に、
雰囲気オシャレ映画である『アステロイド・シティ』。
しかし、
ユーモアや皮肉、風刺に満ちて、
それが、
嫌味では無く、ちょっと、クスッときて、
複雑そうな構成をしていながら、
そんな入れ子構造を、
すんなり楽しめる。
気軽に楽しめて、
奥深く、掘る事も出来る。
中々、『アステロイド・シティ』は趣深い作品です。
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