映画『永遠に僕のもの』感想  神のバ美肉!?無垢なる狂気の青春ノワール!!

1971年アルゼンチン、ブエノスアイレス。善良な両親に愛されて育ったカルリートスは、空き巣を繰り返し、盗難癖があった。転校を機に、新しい人生を歩めという両親の言葉を聞き流し、新しい学校で目を付けたのは、これまたワルのラモンだった、、、

 

 

 

監督は、ルイス・オルテガ
アルゼンチン出身。
監督作に『Cajanegra』(2002)等がある。

 

出演は、
カルリートス:ロレンソ・フェロ
ラモン:チノ・ダリン
ホセ:ダニエル・フェネゴ
アナマリア:メルセデス・モラーン
ミゲル:ピーター・ランサーニ
エクトル:ルイス・ニェッコ
オーロラ:セシリア・ロス 他

 

 

1971~72年、アルゼンチン、
「黒い天使」
「死の天使」と言われ、
マスコミを賑わせた連続殺人犯、

カルロス・エドゥアルド・ロブレド・プッチ。

殺人11件、強盗17件、
その他の犯罪にて、終身刑を言い渡され、
現在も収監中。

カルロスが世間に衝撃を与えたのは、
連続殺人を行ったというのが、
美少年であったというセンセーショナルさ。

 

『永遠に僕のもの』は、
そのカルロスの行状をモデルに、
映画としてのカルリートスというキャラを作り上げた作品です。

そんな本作、
先ず目に付くのは、

主演カルリートスを演じた、
ロレンソ・フェロの美少年さ。

 

映画の美少年と言えば、
エドワード・ファーロングや、
レオナルド・ディカプリオ、
最近では、ティモシー・シャラメなど、枚挙にいとまがありませんが、

本作のロレンソ・フェロも、
衝撃的な美少年さ。

 

この、
非の打ち所のない美少年が、連続殺人を行うという不条理さ

これが、
映画の突飛な設定、

何の罪悪感も持たず、
殺人を行う

 

という非現実性を支えています。

 

映画の冒頭にて、
カルリートスの独白があります。

「何故、皆、もっと自由に生きないんだろう」
「僕は、神の使者(スパイ)だ」と。

この言葉こそ、
映画におけるカルリートスの行動の規範の一つとなっています。

つまり、
強盗、殺人を行うカルリートス、
彼自身には、
罪悪感なの皆無なのです。

正に、

無垢なるが故の、狂気。

 

 

そんな彼が、相棒として絡むラモン、

彼もまた、
カルリートスとは違ったタイプのイケメン。

美少年とイケメンが、
犯罪にて繋がる、

青春ノワール。

 

 

そして本作は、

その音楽も印象的。

 

特に、
冒頭、中頃、ラストで見せる、
カルリートスの不思議なダンスと共に奏でられる楽曲が、
それぞれ耳に残ります。

正に、それぞれのシーンにて、
ロレンソ・フェロを堪能出来ると言えます。

 

美少年を愛でて、
しかし、内容はノワールもの、
それが本作『永遠に僕のもの』なのです。

 

 

 

  • 『永遠に僕のもの』のポイント

カルリートス役のロレンソ・フェロの美少年ぶり

青春ノワール

犯罪者は、特異な人間なのか?

 

 

以下、内容に触れた感想となっております


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  • 青春ノワール

本作の様な、
実在、創作問わず、

犯罪者を主人公に据えた映画作品には、
一定のパターン、定型、様式美があり、
本作『永遠に僕のもの』も、
それを踏襲しています。

 

先ず、犯罪を行う。
→相棒なり、恋人なりが出来る
→犯罪稼業が軌道に乗り、羽振りが良くなる
→人間関係の綻びから、稼業が破綻する
→警察に捕まる

大体、
この展開となりがちです。

 

こういう、犯罪者を主人公としたノワール作品の効用として、

先ず、
主人公が犯罪を行う事に、
観客は、
負のカタルシスを覚えるのです。

普段、
倫理的、社会的に抑制された行為を、
映画の画面の中で、主人公達が、代替行為として行う。

ジョジョっぽく言うと、
「さすがディオ おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!」
「そこにシビれる!あこがれるゥ!」ってヤツですね。

 

しかし、
普段、ルーチンワークを真面目にこなし、
日々、平凡に生きている我々としては、

犯罪者が野放しになっているのは、
好ましい事ではないのです。

なので、最終的には、
犯罪者は、結局は自らの行為の報いを、必ず受けなければならないのです。

つまり、
物語の最後には、警察に捕まり、
この事もまた、
観客の溜飲を下げ、カタルシスとなるのです。

 

本作も、そのパターンを踏襲しておりますが、

オリジナルの要素として特徴的なのが、
やはり、
主人公が美少年である、という事でしょう。

 

カルリートスが犯罪を行う時、
彼は、彼独自の理論により、
罪の意識を回避しています

盗品は、自分で所有せず、
人に渡して、
まるで、自分の罪を人に押し付けている、
或いは、
自分がそれを持っている訳では無いので、自分に罪が無いかのような言説を弄します。

また、

殺人を犯した時も、
発砲と死には関連性が無い、
相手が悪い、
連帯責任だ、
などと言って、責任を回避しようとします。

 

作品の冒頭で、
カルリートスは独白していましたね。

「何故、皆、もっと自由に生きないんだろう」
「僕は、神の使者(スパイ)だ」と。

つまり、
彼は、自分の欲望のまま気楽に生きている、

究極的な、子供の論理のままなのです、
言い換えると、
自分の行動に自ら責任を取らない、圧倒的な無責任なのだと言えます。

 

この子供の理論、
普通なら、
「幼稚で、馬鹿馬鹿しい」と、
観客は感じてしまうでしょう。

しかし、
そこに説得力をもたらすのは、
カルリートスを演じるロレンソ・フェロの圧倒的な美少年ぶりです。

この世の物とも思えない様な(外見の)人間だから、

あまりにも世間の常識からかけ離れた言動に、違和感が無い

外見の良いヤツは、
何をやっても許される!?

そんな不条理がまかり通ってしまうのが、
本作と言えるのです。

 

  • 犯罪者は、特異な人間なのか?

否、そんな事は無い。

犯罪者は、やはり、犯罪者、
外見云々に、左右されない、

そう、言う人も居るでしょうが、
実際には、
社会において、外見がモノを言う時というのは、
多分に存在しています。

 

そこで、本作が投げかけて来るのは、
凶悪犯罪者は、特異な人間なのか?」という問いです。

 

世間で凶悪犯罪が起こった時、

我々は、その事実に震撼し、
「これは、自分とは違う人間が起こした事態だ」と、
思いがちです。

つまり、
犯罪者を、
精神異常者、サイコパスというレッテルに押し込みがちと、
言えないでしょうか?

 

弁護士から助言を受けた両親も、
収監されたカルリートスに「精神異常者」であると主張しろ、
と言います。

しかし、
カルリートスは、
「いや、自分は普通の人間だ」と、
その案を断るのです。

 

時に、犯罪者が罪を逃れる免罪符として利用し、
時に、第三者が、犯罪者は自分と違う人間だとレッテル貼りの為に使う、

精神異常者という概念。

実は、
その言葉の意味するところ自体が、
幻想なのではないのか?

 

確かに、
カルリートスは、
その外見、考え方自体が、
他と、一線を画する所があります。

同性愛的傾向があり、

そして、
人を殺す事に、罪悪感がありません。

しかし、
人と違うという事を、
異常と断ずるのは、また別の話であると、
本作は言っているのです。

 

一見、異常者のカルリートスでも、
ラモンに、自分の思いが拒絶されたと感じたら、
嫉妬し、絶望するという一面もあります。

勿論それは子供的な独占欲の現われですし、
まぁ、そこで、
手に入らぬなら、壊してしまえという突飛な考えに至るのが、
また、カルリートスの特異な部分ですが。

 

犯罪を語る時は、
それを、
美化せず、否定せず、しかし拒絶せず

そういうスタンスで、
レッテル貼りに逃げる事なく、
パーソナルな問題が、どうして、自分の外部にまで及んだのか?
その事を、考える契機と、本作はなると思います。

 

 

と、まぁ、色々言いましたが、

やはり、本作は、

美少年と、その相棒の、
バディ・ムービーであり、

青春ノワール映画。

単に、
カルリートス(ロレンソ・フェロ)の美少年ぶりを観るだけでも楽しい、

そういう作品と言えるでしょう。

 

 

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