映画『検察側の罪人』感想  正義たる者が堕する瞬間!!

 

 

 

検察官5年目にして、東京地検刑事部に配属になった沖野。そこで、研修生時代の教官だったかつての恩師、最上と再開する。最上は沖野に目をかけており、新たに蒲田で起きた老夫婦殺人事件の容疑者の尋問を沖野に任せるのだが、、、

 

 

 

 

監督は原田眞人
映画監督デビューは1979年。
最近の監督作に
『日本のいちばん長い日』(2015)
『関ヶ原』(2017)がある。

 

原作は雫井脩介の『検察側の罪人』。

 

出演は
最上毅:木村拓哉
沖野啓一郎:二宮和也
橘沙穂:吉高由里子

他、
松重豊、平岳大、酒向芳、大倉孝二、山﨑努、等。

 

 

 

ジャニーズ事務所所属の
木村拓哉と二宮和也の先輩・後輩が、
劇中でも先輩・後輩の検事役を演じるダブル主演作品、
『検察側の罪人』。

何となく、チャラいイメージがジャニーズ事務所にはあるかもしれませんが、

体当たりの本気の演技で、
検事というお堅い仕事(イメージ)を表現しています。

 

 

これも何となくのイメージですが、

警察や被疑者、弁護士側から捜査や立件、裁判を描いた作品は多いですが、

「検察」という職業にスポットを当てた映画というのは珍しいです。

なので、
何も情報が無かったら、
本作は立件における検事の過ちを描いた、

心理的な駆け引きを描いた作品なのだと思われるかもしれません。

 

確かにそういう側面もある本作。

しかし、肝は、

正義というものの定義が、
如何に容易く崩れさるのか

 

その事を残酷に、真摯に描いた

人間ドラマのサスペンスと言えます。

 

 

「正義」なんて、
人によって、
国によって、
時代によって、
いくらでも存在するものじゃないか。

そう、皮肉な事を思われるかもしれません。

しかし、
日本という法治国家において、

立件、逮捕、起訴、など、
「正義」の行為を「権力」として存分に振るう検察という存在は、

キレイ事や皮肉で片付けられる存在ではありません。

 

作品の冒頭、
最上は検察が暴走した事件をビデオで研修生に見せます。

そして、こういう趣旨のアドバイスします。

「検察の、真相を追求するという執念こそが、正義であり、それが武器となる」と。

 

言い逃れや、罪を免れようと、
作り話や独自のストーリーを展開してくる被疑者に、それが有効になるのだと。

そうで無いと、
検事は、自身が描く独自の正義、独自のストーリーを真実を混同し、それに固執してしまい、

存在意義を失ってしまう
つまり、犯罪者と同じ土俵に立ってしまうと警告しているのです。

 

このハッキリとしたテーマを冒頭にて提示した本作『検察側の罪人』は、

個人、
組織、
そして国といった存在が、

どう正義を追求して行くべきなのか?

その様子を描いた作品なのだと言えるのです。

 

 

 

  • 『検察側の罪人』のポイント

正義が堕落する過程

個人それぞれの正義の在り方

上層部の無謀な作戦の代名詞、インパール作戦

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 最上の堕落

本作『検察側の罪人』は最上と沖野というダブル主演の作品。

最上の薫陶を受け、
その正義を追求する沖野に対し、

その正義を教えた最上が堕落して行く過程を残酷に描いた作品です。

 

過去に凶悪事件を起こしながら、
少年法に守られ短期間で出所し、

23年前の「荒川女子高生殺害事件」では証拠不十分で不起訴となった松倉。

この松倉を落そうと、
最上が執念を燃やす事、

即ち、検事である彼が、
個人的な正義、ストーリーに固執する事が、
彼の堕落の端緒となります

 

象徴的なシーンに、
取り調べを観察する部屋にて、
最上が暗部から浮き上がって来る場面があります。

彼が闇に飲まれる、
それを暗示している様にも思える演出です。

 

常に客観的な目線で見つめる橘は、そのことを指摘しますが、

沖野は潜在的にはおかしいと気付いてはいるものの、
この事を指摘出来ずにいます。

 

  • 「マリコン疑惑」とは?

さて、本筋ではありませんが、
劇中にて度々挿入される「マリコン疑惑」の事件。

最上の幼馴染みの丹野が関わる事件です。

劇中ではイマイチ掴み辛いこれを、ちょっと解説してみます。

 

丹野は大物政治家・高島の娘よしこと結婚し、
自身も衆議院議員であり、高島の秘書をも務めている。

その高島の収賄容疑の罪を被された形で捜査が進んでいるのだが、

その真実は、
丹野がマスコミに高島のスキャンダル(戦前教育の復活)をリークしたために、
逆に黙殺され、
それどころか、口封じの為に罪を着せられてしまっているのだ。

結局は、逮捕の前日に丹野は自殺し、

その悲劇のヒロインとして、
妻のよしこは、次の選挙にて出馬を狙っている。

 

この様子が劇中では特に説明もされませんが、

しかし、

この丹野の自殺こそが、
最上が堕落する最後の一線を越える、その一押しとなるのです。

 

幼馴染みの丹野を救おうと、
「俺に出来る事はないか」という最上に、

丹野は
「お前も体制側だ」と突っぱねるシーンがあります。

高島グループを守る、
検察、刑事、マスコミ、そういう体制側に居るのだろうと。

それに対し最上は、
「俺も自分の正義を貫き、お前の側に行く」と宣言します。

 

丹野の自殺で逃げ場が無くなり、
最上は宣言通りに、自分の正義、
つまり、
松倉に過去の犯罪を清算させるという個人的な執念を実行するのです。

しかし、
お気づきの通りに、

丹野の個人的な正義感と、
最上が考える個人的な正義感とは、
全然別の物なのです。

丹野も最上も、
「社会的義務感」を錦の御旗として行動しますが、

最上のそれには、より個人的な恨みが、
そのウエイトを占めています。

 

丹野は、
それを理解していながらも、

「自分と同じ様に、義務感で最上も行動して欲しい」という願いを込めて、
最上に証拠を残します。

しかし、
最上の方は、

(最上自身も、自分の正義が丹野と違うとは理解していながらも)

丹野が個人の義務感で、正義を行ったのと同じ様に、

自分も個人の正義を実行してしまうのです。

内容は違いますが、
「個人的な正義を行う」
という、ガワの部分だけを、最上は後追いするのです。

 

検察が、自身の正義やストーリーに固執してしまうと、

それは最早、検事で居る意味が無い

クライマックスにて、
最上が沖野に言い放ったこの言葉は、
次の瞬間には自身の胸を痛烈にえぐるブーメランとなってしまうのです。

 

  • インパール作戦

本作『検察側の罪人』は、
細かい所が豪華であり、作り込んでいるなと感じさせます。

例えば、
一瞬だけ「料理の鉄人」たる道場六三郎が映ったり、

最上が、海外の裁判官が使う小槌(ガベル:gavel)を集めていたり、

混沌とした松倉の汚部屋なんかも、
ある種のリアル感があります。

特に、諏訪部(松重豊)のバーなんか、
もの凄い雰囲気を醸し出す、その極地です。

 

壁には日本の国旗と、
謎の地図があります。

これはおそらく、インパール作戦に纏わるものだと思われます。

原作には無い、
映画オリジナルと言われる、
最上と諏訪部の共通点、

それを繋ぐインパール作戦とは?

 

インパール作戦とは、
太平洋戦争中(1944年3月~7月)、
日本軍がインドの都市のインパールを目指した作戦の事です。

現在では史上最悪の作戦の代名詞として知られると、
Wikipediaに書かれていました。

補給線も乏しく、
作戦に従事した日本兵は殆ど死亡、
上層部の無謀な作戦で、部下を大量に死なせたのだそうです。

 

丁度、映画の撮影中に、
NHKでインパール作戦の特集番組が放映されており、

こういった軍隊組織の悪しき構造は、
今の日本にも生きていると感じた監督が、
映画に盛り込んだ要素なのだといいます。

 

死屍累々の戦線にて、
白骨が道なりに続いていた、
ついた名前が「白骨街道」。

これを意識すると、
諏訪部のバーの「チンドウィンの奥」に敷き詰められている真っ白な玉砂利も、
別の意味に見えてきます。

白骨を意識しているのだろう、と。

 

最上は祖父が、
諏訪部は父がインパール作戦の生還者という共通点を持つ二人。

この二人は正に、
劇中においても「インパール作戦」を行っていると言えます。

 

最上は、
自らの正義に基づき、犯罪を犯します。

客観的に観て、悪に染まった最上。

しかし、最上本人には、
それは実行せねばならぬ正義の行為なのです。

これは、
自らの主張の正当性を客観的に判断出来なかった、
インパール作戦の上層部の命令と通じるものです。

自らの正義に従い、検事としての正義を失う最上、
命令に従い、命を失う日本兵。

最上は犯行後、
意識を失い夢を見ます。

それは、自らが「白骨街道」を丹野と共にあるくビジョン。

そこで出会った自らの祖父や日本兵達は、
「私達はここまでだ」と言いますが、

最上は「俺達はもう少し先に進みます」と言います。

破滅に向かう無謀な行為を、
最上は続けてしまうという象徴的なシーンと言えます。

 

また、諏訪部は最上に、
「あなたの口から、祖父の白骨街道を聞きたい」と言います。

これは言い換えると、
愚行に突き進む(=インパール作戦)最上の姿を見たい
という意味にもとれます。

つまり、
諏訪部は堕落して行く最上を支えるメフィストフェレスの役目をしているのです。

なので、
報酬云々よりも、
人が堕落する様子をこそ、諏訪部が見たい物なのです。

 

消したハズの真犯人、弓岡には共犯者がおり、
その人物の証言で、
冤罪という形で無罪釈放となった松倉。

どうするんだ?
と、一家団欒中の最上を、諏訪部は呼び出します。

最上は「俺は殺しの依頼はしない」と言いますが、

その後の展開は、
明らかに諏訪部の手による松倉の暗殺。

(諏訪部の手の者がおり、暗殺成功の合い言葉が「トラ、トラ、トラ」という太平洋戦争中の暗号(意味は、ワレ奇襲ニ成功セリ)だった)

最上の言外の意図を諏訪部が汲んだのか、
別筋の依頼があったのか、

その判断は観る人には任せられていますが、
モヤモヤとしたものが残ります。

 

  • あああぁぁ

ラストシーン、沖野が最上と対面する場面があります。

 

さて、
私、個人的に
悪者が命乞いするシーンとか、
罪が明らかになった後に言い訳するシーンとか大好きなんですよね。

『ドラゴンボール』のフリーザ篇のクライマックスとか、
映画『リベリオン』のクライマックスとかですね。

そういう直接的なものでは有りませんが、
亜種的な形で本作でもラストシーンに、その場面が挿入されています。

 

みっともない言い訳を披露する最上を捨て置き、

沖野は「自分が信じる正義を追求する」と宣言して去って行きます。

その沖野は最後に「あああぁぁ」と叫びます。

この叫びこそ、沖野の、そして観客が感じる無念そのものなのです。

 

自らに正義を教えた相手が、
完全に堕落してしまった、

その様子を目の当たりにした絶望、

そして観客は、そんな悪漢が野放しになって物語が終わる事へのフラストレーション、

それが叫び声に現われています。

 

しかし、映画は叫んで終わりではありません。

その後、暗転する前に、少し「間」があるんですよね。

この間こそ、
沖野の決意、叫んだままでは終わらない、
負けたままでは終わらせないという決意の現われだと私は思っているのですが、どうでしょうか?

 

 

 

 

絶大な「正義」の権力を持つからこそ、

自制が必要な職業である検事。

その検事が堕落する様をまざまざと描いた作品『検察側の罪人』。

正義と言うものは、人それぞれ、

しかし、

個人が自らの正義を主張する事が、
一転、犯罪になり得るという無常な現実を突き付ける本作は、

個人のみならず、
組織、国といった大きなものにも敷衍され得る問題です。

ミクロからマクロまでを包括する、
客観的な視座が個人にも必要だと思わせる、

正義とな何だ?
そういう事を考えさせられる作品です。

 

 

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