映画『楽園』感想  この世に楽園など無い!!これが排他的ムラ社会、日本の縮図だ!!

ある地方都市の山間の村。Y字路で、少女が消えた。必死の捜索も虚しく、少女・愛華は見つからなかった。
12年後。
難民申請にて、日本に移り住んだ母について来て、村で育った剛士(たけし)。最後に少女と一緒に居た、紡(つむぎ)。村で養蜂を始めた善次郎。この山間の村で、緩やかな繋がりのある彼達が迎える、「事件のその後」とは、、、

 

 

 

 

監督は瀬々敬久
ピンク映画にて、キャリアをスタート。
一般向けの監督作品に、
『ヘブンズストーリー』(2010)
『ストレイヤーズ・クロニクル』(2015)
『64-ロクヨン- 前編/後篇』(2016)
友罪』(2017)
『菊とギロチン』(2018)等がある。

 

原作は、吉田修一の『犯罪小説集』。
本作では、その中の2つのエピソード「青田Y字路」「万屋善治郎」を元に映画化された。

 

出演は、
湯川紡:杉咲花
中村剛士:綾野剛
田中善治郎:佐藤浩市
藤木五郎:柄本明

野上広呂:村上虹郎
黒塚久子:片岡礼子
中村洋子:黒沢あすか 他

 

 

 

ピンク映画からキャリアをスタートし、
近年は、次々と作家性のある話題作を発表し続けている、瀬々敬久監督。

小説作品が数々映画化されている、
映像化ヒットメーカーの一人、吉田修一。

 

因みにこの二人、
作品とは関係ありませんが、
見た目のインパクトも結構シブい

幹部役で「アウトレイジ」シリーズなんかに出ていても違和感ありません。

 

まぁ、そんな事はさておき、
現代日本の映画界で話題の二人の、初コラボ作である本作『楽園』です。

 

原作となった小説集の題名は、『犯罪小説集』。

「楽園」という題名とは正反対のモノを感じ、
なんだか、不穏な雰囲気を感じます。

で、実際どっちよりなの?
と言えば、勿論、犯罪より。

しかし、本作の描かれ方は独特です。

犯罪そのものというより、そこに至るまでの過程、
或いは、
事件が起こった後の影響を描きます。

 

 

舞台は、地方のムラ社会。

地元から、次々と若者が去って行く村での、
少女失踪事件の、その後の顛末と、

限界集落における、人間関係の軋轢が描かれます。

このリアルさ。

あまりにも、生々しいリアルさよ。

子供の頃、皆、
イジメを体験、目撃した事があるでしょう。

あの、嫌な空気感が蘇ります。

 

大人になっても、あの雰囲気を味合わなければならない、この苦痛。

 

子供の頃は、
成長するにつれ、
学校というコミュニティから卒業する事が出来ました。

しかし、
大人になった後、
自分が暮らしている「集落」にて、
逃げ場の無い状態で、イジメが発生したらどうなるのか?

本作で描かれるのは、
楽園とは正反対の、地獄とも言える状況なのです。

 

いつだって、何処だって、そうでしょう?

職場で、人が辞める一番の原因は、
「人間関係」です。

人間関係が崩壊したら、
そのコミュニティを、速やかに立ち去るべし。

そうしないと、
人格が崩壊してしまいます。

 

その様子を描いたのが、本作『楽園』と言えます。

住めば都?
楽園となるハズだった場所が、
何の因果か、地獄と化す

現代日本の社会の縮図を描いた『楽園』。

 

この絶望こそ、
現代のリアルであり、
本作は、それを描いた作品と言えるのです。

 

 

  • 『楽園』のポイント

事件そのものより、関わった人間の、過程とその後を描く作品

現代日本の縮図、排他的ムラ社会

「楽園」とは?

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • モデルとなった事件と、日本という社会の縮図

本作『楽園』は、
大きく分けて3幕構成。

Ⅰ:罪
Ⅱ:罰
Ⅲ:人

という分けられ方で、

Ⅰ:12年前の少女(愛華)失踪事件
Ⅱ:剛士とその周辺
Ⅲ:善治郎とその周辺

の物語が、
主に紡と、
サブとして、藤木五郎の視点により、描かれています。

 

本作で扱われる事件は、
少女失踪事件と、
連続放火殺人事件。

少女失踪事件は、
現代社会において、定期的に起こります。

先頃も、
山梨県のキャンプ場で失踪した少女の事件があり、
こういう事件のニュースが入る度に、
胸が苦しくなります。

 

そして、ある種の偏見かもしれませんが、
容疑者として逮捕されるのは、
若い男性が多く、
そして、ある特定の、雰囲気を身に纏っている感じがします。

「目」だけが、異常にピュアというか、
人間として、成熟しておらず、
その未成熟さが、残虐性を引き起こしているのかと、
思ったりもします。

 

本作では、
そういう、少女失踪事件の犯人のパブリックイメージを、
綾野剛演じる剛士が、
忠実に再現しているのですね。

故に、
村の住民も、
映画の観客も、
必然的に、そういう相手に「コイツ怪しい」という偏見を持つわけですが、
それが、悲劇を引き起こします。

 

善治郎が関わる、連続放火殺人事件の方には、
明確に、モデルとなった事件があります。

2013年7月21日、
山口県周南市の限界集落で起こった、連続放火殺人事件が、それと思われます。

端的にまとめると、
親の介護にて、田舎に戻ってきた男が、
そこで、一念発起して村おこしがてら頑張ろうとしたものの、
狭いコミュニティで暮らしてきた、元からの住民と上手く付き合えず、
口さがない噂話のネタにされ、
精神を病んだ(?)末に、犯行に及んだ、
という(形で決着し、まとめられた)事件です。

この事件の犯人は、
今年(2019)死刑が確定しました。

 

そういう実際の事件を元ネタに作られた、善治郎のエピソードは、
狭いコミュニティでの人間関係の難しさを、
如実に表した話となっております。

 

ちょっとした、ボタンの掛け違いが、
陰湿なイジメに繋がる。

本作で描かれる、剛士と善治郎は共に、

一定のコミュニティを守る為に、
スケープゴート(生贄)として捧げられた、
外部から来た存在
として描かれているのです。

 

剛士は、
作中、藤木五郎の独白で語られている通り、
犯人と「断定」する事で、
他の人間が安心する、理由付けとしての生贄になったのです。

 

善治郎は、
当初は、なんでも屋として、狭いコミュニティの中で重宝されいましたが、

村おこしの為にハチミツを売りたいという熱意が、

逆に、他の村民のシラけ感情を喚起させ、
また、
役所から言われた嫌味を、善治郎の所為で恥をかいたと逆恨みし、

マイナス感情を持った限界集落の村民達は、
善治郎を悪者にし、村八分にする事で、
自分達を正当化しているのです。

 

このイジメの構図、
そして、他に悪者を設ける事で、自身を正当化する手法は、

現代日本社会の縮図であり、

今、国を挙げて、それに取り組んでさえいます。

それは勿論、
働き方改革の一環である、外国人労働者の受け入れです。

 

現在、当初の予定より、
遥かに少ない人数しか、外国人労働者が、資格を受けていません。

その背景には、
親日の外国人を、反日にして国に帰す」といわれる、
技能実習生、外国人留学生の労働問題があるのですが、

自分達が安穏と暮らすために、
外国人を奴隷としてこき使う、この制度を放置したまま、
他国の人間を受け入れようとして、
それが、支持されると、本気で思っていたのでしょうか?

 

正に、
外国人をスケープゴートとして、
自分達の生活の安定、正当化を果たそうとする、

こういう、狭い世界(コミュニティ)での論理が、
社会全体に蔓延しているのが、
日本社会の「悪」であり、

本作では、
その様子が、極めてリアルに描かれているとさえ言えるのです。

 

  • 剛士はやったのか?

原作者の吉田修一は、
完成した映画の、ラストシーン、
愛華が、剛士に花輪を被せる場面を観て、

剛士の姿が、キリストの様に見えたと言っています。

(監督は、「ああ、そういう風にも見えますね」と曖昧にボカしていますが)

キリストは、
十字架を背負わされた時、茨の冠(茨冠:けいかん)を被せられました。

茨冠は、
受難の例えとされ、
また、原罪を背負ったキリストの象徴でもあります。

 

このシーンは、
映画を締める為に、
原作には無い場面を、急遽、撮った場面なのだそうです。

紡の回想の様でもあり、
妄想、想像であるとも受け取れる、このシーン。

映画を観ている我々としては、
結局、「剛士が愛華失踪事件の犯人なのか?」という疑問が、
最後まで残ります。

 

紡役の杉咲花は、
このシーンを撮ったとき、
「え?剛士が犯人なんですか?」と、監督に尋ねたそうです。

監督は「違うよ」と言っているのですが、

パンフレットにて、
他の出演者の発言を読むと、色々考える所があります。

 

剛士と同じ、
狭いコミュニティのスケープゴートになった善治郎を演じた佐藤浩市は、

「個人的には、剛士はやっていると思う」と言っています。

 

そして、当の剛士を演じた綾野剛自身は、

「ラストシーンの撮影の時、剛士はやっていないという想いの元、演じていた」と言いつつも、

「剛士に救いをもたらした、愛華という存在を永遠にしたかったのでは」とも、言及し、

「この後に何が起こったのかは、観る人に託したい」と、言っています。

 

作中、紡も参加する、
火祭りの描写があります。

モデルとなったのは、
奈良澤神社の火祭りだそうですが、
その祭りは、
渡来系の神が、火で以て、結界を破りながら進んで行く様子を表しているのだそうです。

その火祭りに対比され、
しかし、
同じ、渡来人(外国人)である剛士は、コミュニティの生贄の火だるまになるというこの、残酷さ。

本作では、
いつまで経っても「外国人」として扱われ、
コミュニティに潰されるイジメの構図が描かれ、

実際に、剛士がやったのかどうかは、
実は、然程問題ではありません。

それでも、
個人的に推察するならば、

剛士はやっているのでは?と思います

 

根拠は、
紡の小銭入れを見て、「愛華ちゃ~ん」と泣きだした事、
つまり、
愛華が、小銭入れを持っていたと知っていた事。

(もっとも、このシーン、愛華も同じものを持っていたと剛士は推測し、彼女を偲んでいるだけだとも受け取れますが)

そして、その小銭入れを返さずに、
自分の手元に残していた事=愛華を偲んでいた事。

その小銭入れの中に、
紡本人に報されない、「紡は悪くない」という手紙が入っていた事。

 

個人的には、
センシティブな剛士はやっていないと思いたいですが、

これらのシーンを論理的に判断すると、
どうしても、剛士がやっていると思わずにはいられませんが、

皆さんはどうでしょうか?

 

  • 楽園、とは

剛士がやったのかどうか?

そういう事を考えさせられるラストシーンですが、

また、
紡と、藤木五郎で、
正反対の決着を付けるのも、印象深いシーンです。

 

五郎は、
「もう、儂は年だ、抱えるのは無理だ」と言いますが、

紡は、
「それでも、抱えて生きて行くしか無いんだ」と宣言します。

 

剛士が、愛華に花輪を被せられる回想?幻視?を視た、紡。

剛士は、まるで、原罪を背負ったキリストの様に描かれ、
その通りに、
コミュニティに蔓延する「不安」を、一人背負い込む形で、焼死します。

原罪を背負う、キリストになぞらえられた剛士、

彼の姿を「視た」からこそ、
紡も、苦痛を背負いながら、
しかし、
苦痛の生贄にならず、この先の人生を生きて行くと誓うのです。

 

…その後のシーンで、
看板を投げ捨てるという、
「背負う」とは真逆の行為を行うのはご愛敬。

 

しかし、
一方で、五郎の重荷を背負わない=「忘却」という生き方も、
個人的には重要だと考えます

ほら、
『キン肉マン』の49巻での、
悪魔超人サンシャインの台詞、
「都合の悪いことは忘れよ!」という台詞がありましたね、
それと同じです。

サンシャインは、
人間に負けたという過去がありますが、
そういう都合の悪い過去に縛られて、クヨクヨ考えるのは良くないと言っているのです。

実際、
善治郎の方のエピソードでは、

コミュニティを去るなり、
図太く生きれば解決したハズの事ですが、

過去の妻の思い出に囚われるあまり、
前に進むことが出来なかった、
センシティブな男の悲劇を描いています。

善次郎も、サンシャインの如く、
「鈍感力」を発揮出来たなら、
また、違った結末になっていただろうと、思います。

月の稼ぎが7万円って、学生のバイトの方が儲かるし、限界集落に拘るべきでは無かったのです。

 

事件を背負って、
それでも、潰されまいとする生き方。

事件を忘却して、
都合の悪い過去を忘れるという生き方。

本作では、
その二つのラストシーンが描かれており、
そのどちらも、事件に対する在り方として、
等しく提示されています。

 

 

日本は、楽園の様な国である、
そういう母の言葉と共に、日本にやって来た剛士。

妻の思い出と共に、
幸せに生きようと願った善治郎。

それは、楽園たり得たハズが、
しかし、
現実は少しのズレが段々エスカレートして行き、

その正反対の地獄の様な有様が現出してしまいます。

 

そんな、地獄に隣接しながら、
紡は、それに流されてなるものか、と、最後に決意します

紡の同級生の広呂は言います、
「紡は凄ぇ、行動出来るんだから」と。

藤木五郎は、
「孫が居なくなって、どうしてお前は生きて居る」と、理不尽に絡みつつも、
「大きくなった、元気でやってるか」と、
まるで、孫に語りかけるかのように接するシーンもあります。

 

実際には、楽園など、存在しない。

この現実を受け入れて生きるか、

この現実を知りながら、敢えて、見つめずに生きるか、

本作『楽園』では、
そういう現実のシビアさを描いた作品と、言えるのではないでしょうか。

 

 

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コチラが、吉田修一の原作小説『犯罪小説集』です


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