映画『真実』感想  人間関係に、真実など無い!!?

ベテラン女優、ファビエンヌが自伝を出版する。殆ど、ゲラが上がりそうと言う所に、アメリカから娘のリュミエールが、夫と孫娘を連れて帰って来た。
自伝の下書きを見せてくれる約束だというリュミエールに、ファビエンヌはとぼけるが、渋々見本を渡す。
直ぐさま、自伝を読み終えたリュミエールは言う。叔母のサラの事を、何故全く書かないのか、と、、、

 

 

 

 

監督は、是枝裕和
監督作に、
『誰も知らない』(2004)
『歩いても歩いても』(2008)
『そして父になる』(2013)
『海街diary』(2015)
『海よりもまだ深く』(2016)
三度目の殺人』(2017)
万引き家族』(2018) 等

 

出演は、
ファビエンヌ:カトリーヌ・ドヌーヴ
リュミエール:ジュリエット・ビノシュ
ハンク:イーサン・ホーク 他

 

 

昨年(2018)『万引き家族』にて、
日本人としては4人目、21年ぶりに、
第71回カンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した是枝裕和。

昨年、私が観た映画の中では、
2番目に観客の入りが良かった作品でした。

(一番は、『カメラを止めるな!』)

 

翻って、本作。

是枝監督の受賞後第一作である『真実』ですが、
いやぁ、
ガラガラでしたね。

まぁ、ガラガラというか、
私一人でしたね、ええ。
(上映開始後に、二人入って来ましたが)

 

何と言うか、
商業映画におけるプロモーションの大事さ、

作品の露出や、観客にウケる出演者、内容紹介、
それらが、如何に必要なのかと、あらためて感じさせられました。

『万引き家族』の時に居た、
マダム達は一体何処へ行ったのか、、、?

 

まぁ、気を取り直して、
本作『真実』の事について語りたいと想います。

 

『真実』の監督は、是枝裕和。

日本人ですが、

本作の雰囲気は、
フランス映画的なものとなっています。

 

皆が、何となくフランス映画に持っているイメージ、

雰囲気重視の、良く分からない感じのストーリーで、
いつの間にか、終幕してしまうという、アレです。

正に、
そのイメージのままの作品。

いやぁ、

本作の客入りが壊滅的なのは、
マダムの「危機回避能力」が的確に発動しと考えるべきだったんですねぇ。

 

まぁ、元々、
是枝監督の作品は、フランス映画的だっと言えば、それまでなんですが。

それに本作、
別につまらないわけでは無いのです。

単に、
フランスで撮影して、
フランス人の出演者だから、
日本人には馴染みがなかっただけだと思いますね。

 

ストーリー的には、

母娘の相克と、
そこから派生して、人間関係の「綾」が描かれます。

 

 

自伝を読んだリュミエールは、
嘘ばかりだと、ファビエンヌに言います。

私を送り迎えなんかした事ないクセに、とか、
私を育てたのは、サラ叔母さんでしょ、などなど。

それに対しファビエンヌは、
女優が本当の事言ってどうするの?つまらないでしょ?

と、うそぶきます。

歯に衣着せぬもの言いと、のらりくらりと追求を躱すファビエンヌの態度に、
リュミエールは苛つきを募らせて行き、、、

 

親子関係、
夫婦関係、
雇い主と、雇用者の関係、
映画の共演者との関係、
自分と、世間の目との関係、

ファビエンヌを中心に、
様々な、社会生活における、人間関係のあれこれが描かれる本作『真実』。

家族の話を描き続けた、
是枝監督らしい作品と言えます。

 

 

  • 『真実』のポイント

親子関係を中心とした、人間関係のあれこれ

ファビエンヌの毒舌

多重構造により反転する、真実

 

 

以下、内容に触れた感想となっております


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  • カトリーヌ・ドヌーヴ

1943年生まれのカトリーヌ・ドヌーヴ。

本作のファビエンヌはベテラン女優、
毒舌で、ボケ一歩手前の様な飄々とした態度で皆を手玉に取り、
傲岸不遜な態度を崩しません。

…もしかして、
ファビエンヌって、カトリーヌ・ドヌーヴ本人の宛て書き!?

観客に、
そう思わせる様な、演出と設定であると言えるでしょう。

 

カトリーヌ・ドヌーヴの本名は、
カトリーヌ・ファビエンヌ・ドルレアック。

本名のファビエンヌを、
役名に使っているのですね。

 

メタ的な要素を作品に取り入れている本作、

そういう、
現実を参考にした多重構造になっている事が、
主演の名前にて、象徴されているのです。

 

  • 人間関係の、真実

本作『真実』では、
ファビエンヌの親子関係を中心に、
様々な人間関係が描かれます。

 

夫婦関係、
雇用主と雇用者の関係、
姑と婿の関係、
共演者との関係 etc…

その中で、本作のヤマ場となるのは、
中盤の、リュミエールがファビエンヌの秘密を暴露するシーンと、
終盤、リュミエールとファビエンヌが抱き合うシーンでしょう。

そして、
この二つのシーンの対照が、
正に本作のテーマを表していると言えます。

 

中盤、
リュミエールは、
母のファビエンヌが、叔母のサラが内定していたという役を、
その映画の監督を寝取った事で、
横取りしたのだと詰ります。

その役で、ファビエンヌは賞を獲得しており、
本来ならば、サラがその栄誉に浴してしたのだ、

役を奪われたショックで、
サラは海に酔った状態で入り、死んだのだと、
家族の前で、経緯を暴露するのです。

感情を爆発させる娘に、
ファビエンヌは持ち前の飄々とした態度と、自己防衛的な論理にて、
何が悪いのだと開き直ります。

 

さて、
普通の作品なら、
こういった、胸が痛くなる様な「本音の暴露」により
人間関係が変化し、
なんらかの決着を迎える事になります。

本作でもそうですが、
その「方向性」が独特です。

 

親子関係、家族関係は、
他の人間関係と、決定的に違う部分があります。

それは、本音の暴露が許されるという点です。

自分で選んだものでは無い、
先天的な関係である家族関係は、
辛辣な言葉で罵り合っても、
結局は、関係を、否応無く続けて行かなければならないというどうしようも無さがあります。

それ故、
関係の断絶と修復を繰り返し、
対立すら、それが当たり前となる境地に至ったりするのです。

勿論、
対立などせずに、仲の良い家族も居ますし、
逆に、決定的に断絶してしまっている家族も居ます。

反面、
夫婦関係や会社の同僚など、

 

後天的な関係性では、
常に、自分と相手との距離感を計っておかないといけません。

一度、本音の暴露により、
関係性が拗れたら、それを修復する煩わしさより、
関係の破棄という安易な道を選ぶ方が楽で効率的だからです。

故に、他人との人間関係においては、

人は、自らの本音を隠し、
その場に見合った「役割」を演じる事を学んで行きます。

同級生、同僚、
コーチと生徒、上司と部下、
客と店員 etc…

意識する、しないに関わらず、
円滑に、その「場」のTPOに合わせた態度を採る、
それが、社会性と言えるものです。

 

さて、本作では、
親子間で、リュミエールは本音を暴露するのですが、
そこから向かう先は、

本音を取り払った事で解決するのでは無く、

逆に、
お互いが、相手の望む態度をとり、言葉を言うという、
本音を隠した、演技に徹する様になるのです。

 

本作では、劇中劇として「母の記憶に」という、撮影中の作品があり、
ファビエンヌは、それに出演しているという設定です。

宇宙船に載っている「母」は若いまま、
対して「娘」は、歳を取り、母より老いている、

その娘の役をファビエンヌは演じます。

しかし、
相手役「母」を演じるマノンは、叔母(ファビエンヌにとっては妹)サラの再来と言われており、

その彼女相手に、上手く、演じる事が出来ません。

 

一方、私生活の方でも、
長年、ファビエンヌを支えた執事のリュックが、突然の辞職。

彼を呼び戻す為にどうすればいいのかを考えたファビエンヌは、
脚本家の娘に、台詞を考えてくれと頼みます。

素直な言葉を言えなくとも、
「演技」なら出来ると、ファビエンヌはうそぶくのです。

 

ファビエンヌを知り尽くしているリュックは、
彼女の態度が、娘の「脚本」である事は、百も承知。

それでも、仲直りは上手く行きます。

それに伴い、
「母の記憶に」の演技も上手く行き、
共演者のマノンを受け入れる事で、
疑似的に、妹のサラとの関係性に、決着が着きます。

 

そして、親子関係も。

ファビエンヌはリュミエールに、
娘が、サラに奪われたので、
自分は、役を奪ったのだと、

そして、
リュミエールが好きで、サラが読み聞かせしていた絵本が映画化されるとき、
だからこそ、
その映画化の魔女の役を、自分は演ったのだと、言います。

母の不器用な想いに触れ、
リュミエールは、ファビエンヌを受け入れます。

リュミエールは、母を許したのか?

彼女は、母に一つ、贈り物をします。

それは、
孫娘シャルロット(リュミエールの娘)が、ファビエンヌに言う言葉、
「お婆ちゃんの様な、女優になりたい」です。

 

この言葉は、リュミエールの脚本。

ファビエンヌは感動しますが、
母の所に戻って来たシャルロットは、母に尋ねます、
「でも、これって真実?」と。

 

本作『真実』においては、

真実、本音の暴露にて、
人間関係が崩れ、崩壊しようとします。

しかし、
お互いに、お互いが「言って欲しい事」を相互に演じ合う事で、
それを、食い止めます。

女優としてのプライドの高いファビエンヌ、
彼女を中心とした人間関係は、

本来なら、
本音のぶつかり合いにより形成されるハズの親子関係、家族関係ですら、

虚飾により、
良好な道へ向かう事を選ぶのです。

 

それは、ファビエンヌも同じ事。

終盤、彼女は、
時々、髪を一束掴んで、匂いを嗅ぐ仕草をします。

その仕草は、作中作「母の記憶に」にて、
「娘」が嘘を吐く時にするクセ。

つまり、
「真実では無い」=「演技」、

ファビエンヌが、この仕草をする時は、
「演技」であるという記号なのです。

 

ですが、
この「髪の匂いを嗅ぐのは、嘘を吐く時のクセ」が記号であるという事は、
娘のリュミエールも知っている事。

撮影中、
ファビエンヌの隣に、リュミエールも居ましたから。

つまり、これを考慮するならば、

ファビエンヌは、
自分の仕草が嘘なのだと、敢えて、娘に伝えながら、
相手が望む心地の良い、態度、言葉を放っているのだとも言えます。

 

でも、これは、本当に演技なのでしょうか?

もしかして、敢えて、演技なのだと知らせているという事は、
実は、照れ隠しで、
本音という事も考えられないでしょうか?

そう考えると、
観客である我々も、思考の沼に嵌ってしまいますが、

もう、そうなったら、
疑心暗鬼になるより、
素直に、相手の思いやりを受け入れた方が良いような気もします。

 

 

 

親子と言っても、人間関係。

相手と、良好な関係を得るならば、
ある程度の、「忖度」は必要でしょう。

シャルロットは、
母に「でも、これって真実?」と訪ねます。

確かに、
脚本や、演技が、本作では飛び交います。

しかし、
相手を想う気持ちで行ったという部分においては、
その気持ちは、「真実」だと言えるのではないでしょうか。

 

嘘も方便、
親しき仲にも礼儀あり、

『真実』は、人間関係の機微を描いた作品と言えます。

 

 

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