1969年、フーテンのオバケと喫茶店で出会った吉積めぐみ。オバケはピンク映画に出演出来る、女子高生くらいに見える女優を探していた。それに対してめぐみは、「ピンク映画って、女でも助監督出来る?」と尋ねる、、、
監督は白石和彌。
監督作に
『ロストパラダイス・イン・トーキョー』(2010)
『凶悪』(2013)
『日本で一番悪い奴ら』(2016)
『孤狼の血』(2018)等。
出演は
吉積めぐみ:門脇麦
若松孝二:井浦新
足立正生:山本浩司
秋山道男(オバケ):タモト清嵐
小水一男(ガイラ):毎熊克哉
荒井晴彦:藤原季節
篠原美枝子:中澤梓佐 他。
1965年に
映画監督・若松孝二を代表として設立された若松プロダクション。
低予算・ピンク映画を中心に、
メッセージ性のある作品を続々と発表し、
後に映画関係者を多数輩出したと言われています。
本作の監督、
白石和彌もその一人。
そして本作は、
2012年に亡くなった、若松孝二に代わり、
若松プロダクションが再始動する、その第一弾の作品です。
さて、
だがしかし、
私は一本も「若松プロダクション」の映画を観た事が無く、
そして、若松孝二という映画監督の事を全く存じ上げません。
そんな人間が、
1960年代後半~1970年代前半を駆け抜けた、若松プロの模様を描いた本作を観て楽しめるのか?
楽しめるのです、
面白いのです。
勿論、細かい背景は分かりません。
しかし、
私は本作を
青春映画として観ました。
携帯電話も、
SNSも無い、
コンビニはまだ普及しておらず、
バブル景気すら訪れていない、
そんな、
今と比べると格段に不便な時代とは言え、
あの時代には未だ、
「俺たちがやる」という気概と勢いがあった。
そんな熱気溢れる時代において、
青春を生きるのは、どんな事なのか?
その様子を、
鮮やかに描いています。
とは言え、
青春における若者の悩みというのは、
時代を超えるもの。
そういう普遍的なものを扱っているのだとも言えるのです。
ピンク映画の製作に、青春を捧げた女性助監督の人生の一幕を描いた本作、
何かを作るという事、
何かを成し遂げるという事が、
青春にとって何を意味するのか?
『止められるか、俺たちを』には、
そんなテーマも込められていると思うのです。
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『止められるか、俺たちを』のポイント
青春と、その蹉跌
エロと表現の自由
3日、3ヶ月、3年
以下、内容に触れた感想となっております
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エロと表現
本来ならば、
若松孝二と、
若松プロダクションの事を事前知識として知っていた方が楽しめるであろう、本作『止められるか、俺たちを』。
実話を基にして作られた本作は、
しかし、
実話だからこその、厳しい現実を描き、
若松プロに青春を捧げためぐみへの鎮魂歌とも言える作品なのです。
しかし、
青春の輝きと、その蹉跌をいうのは、
時代を超えて共感するもの。
私は、
その観点で本作を観ました。
さて、
かつて、『BSマンガ夜話』という番組がありました。
1時間の枠で、
一つの漫画作品を語り尽くすという、TV番組でした。
その『BSマンガ夜話』にて、
レギュラー出演者の一人である、漫画家のいしかわじゅんが、
よくこんな趣旨の事を言っていました。
「エロ漫画からは、時として面白い作家が発掘される」
「エロ漫画系の雑誌では、作中にエロが入っていれば、何を描いても文句は言われない」
つまり、
エロ界隈の発表紙は、
過激な主張や表現でも、
それを許容して作品として発表出来る場所だったというのです。
いしかわじゅんの漫画家活動は、
Wikipediaによれば1976年~。
つまり、
時代として、
若松プロの活動を観ていた可能性があります。
『止められるか、俺たちを』を観た感じでは、
若松プロは、
ピンク映画という表現媒体において、
とりあえずエロを交えつつも、
過激な主張と表現で、
時代に「ナイフを突き付ける」様な作品作りを目指していた、
そういう印象を受けました。
きっと当時は、
エロ目線で観に来た観客の度肝を抜き、
目を白黒させる事を目標にしていたのではないでしょうか。
そういった、
違う目的で来た無関心の観客にすら、
何か心の中に残すものがある、
これこそが、表現者が目指す境地なのです。
若松プロは、
常にそれと戦っていた。
だからこそ、
主流とは言えなくとも、
評価の高い作品を作っていったのだと思います。
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3日、3ヶ月、3年
そんな若松プロに、助監督として加入した吉積めぐみ。
「3年頑張ったら、映画監督にしてやる」
そう言われて仕事を開始しますが、
何がなにやら分からぬ間でも、
監督・若松から怒鳴られ、
「俺の目の前から消えろ」と言い放たれてしまいます。
まぁ、昔は、
学校でも、部活でも、バイトでも、会社でも、
教えもしないのに「そんな事も出来ないのか!?」と怒鳴られた、
ああいうノリですね。
今の時代ではかんがえられませんが、
こういうイジメ同然のシゴキというか、
まぁ、何も考えずに怒鳴ってるだけですが、
こういう事を乗り越えて、日々の生活を続けていっていたのです。
いわゆる、三日坊主というのは、
それに耐えられる期間ですね。
3日を乗り越えたら、
とりあえず続けられる、と言います。
(まぁ、現在では、1日で速攻辞めますが)
同じく、
ふと自分を振り返って見て、
辞めようかどうか悩む期間というのが、
3ヶ月目と、
3年目だといいます。
「3年頑張ったら~」というセリフは、
言い換えると、
「3年続けたら映画撮らせてやる、まぁ、続かないだろうがな!!」という意味が、
言外に込められているのです。
しかし、
偶にバイトでも「バイトリーダー」とか言われる、
社員より働く長老バイトみたいな人もいます。
めぐみも、
何だかんだで3年続け、
遂に映画を自分で撮る事を任されるのです。
が、、、
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鮮やかな青春と、その蹉跌
自分の言いたい事とは何だろう?
何を撮影したいのか、分からない。
等と悩んでいためぐみ。
兎にも角にも、ピンク映画『浦島太郎』の撮影を終え、
若松プロの皆で、試写をした後。
「あっ(察し)…」みたいな出来に、
皆が皆、当たり障りの無い事を言ってお茶を濁します。
そして、
肝心の若松孝二は、
作品の事には触れず、めぐみでは無い、
新加入の荒井を連れて呑みに出かけます。
千言を尽くすよりも、
尚、有言な作品批評。
かつて、
時代にナイフを突き付ける様な作品を作る、
と言っていた若松監督のその行動。
お前の作品には、
特に何も語る事は無い、と言われているのと同意です。
その後、
パレスチナに行って、
政治運動にかぶれた若松と足立。
『赤軍ーPFLP 世界戦争宣言』を撮影し、
それを赤バスで全国巡業上映しようと計画します。
めぐみもそれに乗りたかった様子だが、
しかし、
めぐみは若松プロの活動資金を稼ぐ、
「居残り組」を命ぜられます。
そして、
妊娠している事が発覚し、
一人で思い悩むめぐみ。
自分が好きなのは足立だが、
SEXしていた相手は高間。
足立に想いを告げる云々以前に、
その行為すら断たれる現実が横たわります。
そして、睡眠薬の過剰摂取とウィスキーによる相乗効果で、
めぐみは死亡。
事故なのか?
自殺なのか?
はっきりとは言えませんが、
『止められるか、俺たちを』においては、
自殺の様なニュアンスで描かれています。
何とか撮影した作品について、評価されず、
若松プロの主流派が参加する赤バスの上映巡業にも参加出来ず、
そんな自分が、子供を産む事が出来るのか?
人間、何も考えずに、一生懸命やっている時が、
実は一番楽しいし、充実した「生」を生きる事が出来ます。
即ちそれこそが、「青春」と言われるものなのですが、
それは「青春」の前半部分。
何かを長く続けると、
そこに責任が生じたりします。
そして、いざ、責任ある仕事を任された時、
その重責と、
それを上手く回せる力量が自分に無い事に気付き、
愕然とするのです。
他人がする事を見るのと、
いざ、それを自分がやるのとでは、
180度ほども違う。
そのいざという時、
自分が如何にヒヨッコだったのかを思い知り、
鼻っ柱を叩き折られるのです。
これこそが、「青春」の後半部分。
前半と後半で、
光と影を描くのが、「青春」というものなのです。
めぐみは、映画関係で、2度、挫折します。
そんな自分が、
子供を育てるという重責を果たせるでしょうか?
シングルマザーとして自分を育てた母。
特に、感謝もしていなかったその相手に、
わざわざ「愛している」と電話したその背景には、
子供を育てるという事、
一見「誰でも普通にしている」と思われる事でも、
その実、重責のある仕事だと思い知った時、
母の苦労を知り、
映画で認められなかった自分には、子育てが無理だとめぐみは思い至ったのです。
自分が「使えない」側の人間だと知るのは辛い。
それが、
青春を生きる若者なら尚更です。
めぐみは、
自分の情けなさが許せなかった、
死ぬほど悔しがったその結果、死に至ったのです。
しかし、です。
人生、その全てに必ず勝利する訳ではありません。
むしろ、生きていれば、負け数の方が多い位です。
学生時代は、
自分が将来何になりたいか分からない。
いざ、就職しても、
その仕事に充実感を覚えず、
生活の為に仕事をするのか、仕事の為に生活しているのか、
本末転倒の逆転現象を感じてしまう。
めぐみも、
いざ自分が表現者となった時、
映画監督として、何を世間に問いかけ得るのか?
それを見い出せずにいました。
負け癖が付くのは頂けませんが、
負けてもへこたれず、何度も再チャレンジする折れない心を持っている者のみが、
人生において成功者になり得るのです。
生きる事の悩みに囚われず、
その壁をぶち抜く努力を日々続け、足掻く事、
それのみが、絶望から脱する唯一の方法だと、私は考えます。
若いと、それに気付かない。
めぐみは、
『若きウェルテルの悩み』の如く、
太古の昔から青春の蹉跌により死に至った若者達と、
同じ轍を踏んでしまうのです。
作中でも触れている事件に、
「三島由紀夫の自衛隊駐屯地での割腹自殺」(1970)があります。
若松孝二はそのニュースをTVで知り、
「コイツ、遊びじゃ無かったんだなぁ」
「でも、死んでしまったらお仕舞いだけどな」
と言い放つシーンがありました。
死によって、自衛隊の決起を促した三島と、
表現者なら、生きて発言せよと、三島の死を批判した若松。
どちらが正しいかは一概には言えませんが、
文学者として皆に認められ、尊敬された三島に対し、
資金繰りに奔走し、
「上」からは何度も「表現の自由」を侵害され、
それでも映画を撮り続けた若松とでは、
その信条が全く違うのが印象深いです。
そして、めぐみは、
若松プロならば、
生きて表現すべきだった、
例え、何度失敗しようとも、
そんなメッセージが、
このシーンには、後から考えると込められている様にも思うのです。
因みに、
三島由紀夫を作中演じたのは、
本作の監督の白石和彌だったのもまた、
このシーンの重要性を意味していると思われます。
吉積めぐみという存在の、
青春の美しさと、その蹉跌を見せつけ、
表現者の何たるかを描いた作品『止められるか、俺たちを』。
時代はこの後、
「浅間山荘事件」(1972年2月)が起こり、
尚、混迷の様相を呈します。
確かに、
時代は違い、環境の違いもありますが、
青春の悩み、
表現の苦悩は古今東西、万国共通、
今を生きる我々にも通ずるものがあります。
苦悩があっても、
表現者というものは、走って行く。
『止められるか、俺たちを』という題名には、
その悩みにへこたないという、
表現者に対するエールが込められている、
そんな作品だと私は思うのです。
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