映画『アス』感想  不都合な、己自身の暗黒面と対峙せよ!!

1986年、カリフォルニア州、サンタクルーズ。子供の頃、海辺の遊園地で迷子になった事がトラウマとなっているアデレード。現在は結婚し、夫と二人の子供と共に、再び思い出の地にやって来たが、言いようも無い不安に苛まれる。その予感が的中するかの様に、不気味な4人組の家族が彼女の家へと訪れる、、、

 

 

 

 

監督は、ジョーダン・ピール
元は、TVコメディアン。
絶賛された初長篇監督作の『ゲット・アウト』にて、
アカデミー賞脚本賞を受賞した。

 

出演は、
アデレード/レッド:ルピタ・ニョンゴ
ゲイブ/アブラハム:ウィンストン・デューク
ゾーラ/アンブラ:シャハディ・ライト・ジョセフ
ジェイソン/プルートー:エヴァン・アレックス 他

 

 

 

皆さん、VTuber って知ってますか?

YouTube にて配信している人を、
「ユーチューバー(YouTuber)」って言いますよね。

その場合、
配信者自身が、画面に映って、
パーソナリティとして、個人の番組を配信している訳ですが、

VTuber とうのは、
その配信活動におけるパーソナリティを、
「バーチャル(virtual)」のキャラクターにて代用している人の事を言います。

その、バーチャルユーチューバー(Virtual YouTuber)を略して、
ブイチューバー(Vtuber)と言います。

 

そのブイチューバーで、
最も有名なのが、「キズナアイ」というキャラクター。

しかし、
この最強のブイチューバーは、
最近、炎上してしまいました。

詳しくは、「キズナアイ 分裂 炎上」と検索すると分かると思いますが、

簡単に言うと、

「キズナアイ」というキャラクターを、
外見を同じくして、中身を4人に増やしたのです。

 

ブイチューバーの基本は、
アニメ系の絵に合わせて、
声優が声を充てて、キャラクターコンテンツとして売り出しています。

「キズナアイ」の場合は、
その人気故、
キズナアイの中の人、即ち、声優の負担が大きいです。

この「中の人」の負担を軽減するという名目にて、
代役に、非常に「似た声」の代役を3人立て、

更に、露出を増やし、
あわよくば、より儲けようという魂胆にて、
四人体制にて「キズナアイ」を演じる事になりました。

 

しかし、
これが従来の「キズナアイ」のファンからは、大不評。

他に、3人の新規の「キズナアイ」が現われた事で、
オリジナルの「キズナアイ」の出番が減少したからです。

 

この炎上騒ぎには、
様々な要因が絡まっていますが、

何故、視聴者が、
オリジナル以外の「キズナアイ」を受け入れないのか?というと、

その一因として、
なまじっか、オリジナルに「似ている」からという事が挙げられます。

 

もし、外見にて、オリジナルと違うとハッキリ分かるのなら、ここまで炎上しなかったでしょう。

例えば、
オリジナルの「キズナアイ」の髪の色は黒ですが、
キズナアイ2号の髪の色は金色、
3号は、青色、
4号は、ピンクだとしたら、
違いがハッキリ観て分かります。

しかし、
「見た目」が同じなのに、
声が微妙に違う、
笑い方が少し違う、
トラブルに対する、反応がしっくりこない etc…

殆ど同じなのに、
若干の違いがあり、それが積み重なる、

まるで、
自分が好きなものを、
徐々に、汚されているような感覚、、、

これが、強烈な嫌悪感を呼び起こすのです。

 

 

そう、
本作『アス』というホラー映画が呼び起こす嫌悪感とは、

正にこの感覚、

自分に「似て非なるモノ」を見る時の嫌悪感を、
前面に打ち出した作品なのです。

 

 

1986年、アデレードは、
浜辺の迷路のアトラクションにて、
自分と同じ顔の「存在」と出会い、
そのショックで喋れなくなったという過去があります。

そんな因縁のある浜辺に、
現代、再びやって来たアデレード。

彼女は、嫌な予感がすると夫のゲイブに打ち明けますが、

その告白の途中、
息子のジェイソンが、
「外に人が居る」と言ってきます。

果たして、
確かに、4人組の家族らしき集団が敷地内に居ます。

警察に電話しても、
到着まで14分掛かるとの事。

ゲイブは追い返そうとしますが、
逆に、4人組は、家の中に押し入って来ます。

その4人組は、
揃いの赤いツナギの服を着て、
そして、
アデレードの家族4人と、
全く一緒の顔をしていたのです、、、

 

自分と全く同じ顔の存在が、
意味不明に襲いかかって来る恐怖、、、

端的に言うと本作は、
ドッペルゲンガー 対 自分 という、
デス・サバイバルの様相を呈しています。

 

さて、本作、
そういう、ホラー要素としての、
デス・サバイバルの部分のみでも、
充分面白い作品と言えますが、

作品のテーマとして扱っているのは、

現代アメリカ社会の問題点であり、
それは、
日本に生きる我々にとっても、
他人事では無い問題提起と言えます。

 

本作の題名は『アス』。

これは、「us」(我々)という英単語であり、
そして、
「USA」(アメリカ合衆国)の「US」でもあるのです。

 

とは言え、
別に本作は、そう難しく考える必要が無いのが良い所。

単純に、
サバイバル・ホラーとして楽しむも良し、

テーマを掘り下げて、色々考えるのも良し、

作品に込められた小ネタを発見して楽しむのも良し、

そういった、様々な楽しみ方が、
本作は可能なのです。

 

本作の題名は、『アス』。

その題名通りに、
鑑賞者が、自分自身を見つめる事になる映画と言えるのです。

 

 

  • 『アス』のポイント

自分自身(ドッペルゲンガー)と戦う、サバイバル・ホラー

格差により成り立つ社会

設定に込められたネタの興味深さ

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


スポンサーリンク

 

  • コメディ出身のジョーダン・ピール監督

本作の監督であるジョーダン・ピールは、
TV出身のコメディアン。

キーガン=マイケル・キートンとのコンビで、
賞を獲った事もあります。

最近でも、その二人のコンビで、
映画の『トイ・ストーリー4』に出演していた事は、
記憶に新しい所。

また、こういった声優活動のみならず、
俳優活動の経験もあるというのが、ジョーダン・ピール。

 

さて、ここまで言うと、
日本にも、似た様な映画監督が居るのに気付きます。

それは、
北野武です。

共に、コメディ出身ながら、
片や、ホラー、
片や、ヴァイオレンスと、
撮影する映画のテイストは、ギャグとかけ離れたジャンルの様に感じます。

 

しかし、実際は、そうではありません。

「コメディ」というジャンル、
即ち、人を笑わせるという行為は、これが存外に難しい。

頭を捻って、捻って、
自分が面白いと思うものを客観視しつつ、
更には、
時に、己自身をネタにし、人の共感を得なければなりません。

その行為の果てには、
何が面白いのか、分からなくなる事もしばしば。

道化を演じながらも、
決して、馬鹿には出来ないジャンルであり、

笑いを突き詰めるという事は、
これ、狂気と紙一重と言えるのです。

故に、
コメディとは、
ホラーや、ヴァイオレンスと親和性があると言えます。

 

漫画界を見てみると、
ギャグ漫画出身の吾妻ひでおが、不条理モノの漫画を描いたり、

『ハレンチ学園』を描いた永井豪が、
『デビルマン』を描いたり、

『行け!稲中卓球部』を描いた古谷実が、
『ヒミズ』を描いたり、

ギャグが突き抜けると、
狂気に至るという事を、物語っているのではないでしょうか。

 

そんなコメディ出身のジョーダン・ピールが描く本作、『アス』は、

それ故に、
非常に練られた、
頭でちゃんと考えたホラー映画となっているのです。

 

その一例として、
本作は「ギャグ」が多めの作品となっております。

特に、父親役のゲイブは、
本作におけるコメディリリーフとなっております。

彼が、
緊迫した場面の合間合間に、
素っ頓狂な発言を挟む事により、
場面に緩急が生まれ、
より、恐怖も際立つのです。

まるで、
スイカにかける塩の様に。

 

私の好きなギャグシーンは、
娘のゾーラが、
自分のドッペルゲンガーであるアンブラを轢き殺そうとした場面です。

普通の作品なら、
両親が引きつつも、
相手を轢き殺してしまう場面ですが、

なんと、
アンブラは車を躱し、
屋根に飛び乗ってしまったのです。

この、
絶望と滑稽さが微妙にブレンドされた塩梅は、
なかなかのものと言えます。

コメディ出身の監督の、面目躍如と言えるシーンです。

 

また、アデレードの、
「メキシコに逃げる!」という台詞も好きです。

トランプが、メキシコとの国境に壁を作っている事への、
痛烈な皮肉と言えますね。

逃げるハズが、自分達が作った壁の所為で逃げられない!的な。

(因みに、アデレードを演じたルピタ・ニョンゴはメキシコ出身)

 

  • ハンズ・アクロス・アメリカ

さて、
実は、『アス』のキモとなっているのが、

冒頭、アデレードが観ていた、
1986年のTV画面に映っていた慈善イベント、
ハンズ・アクロス・アメリカ(Hands Across America)」です。

 

ハンズ・アクロス・アメリカとは、
1986年、アメリカで起こった、実在のキャンペーン。

前年(1985年)、
マイケル・ジャクソンなど、著名なアーティストが多数参加した、
アフリカの飢餓を救済するキャンペーン、
「ウィー・アー・ザ・ワールド」が行われました。

このイベントは大成功し、
多額の寄付が寄せられましたが、

「国内の貧困問題を放置して、他国を救うのか」
という言い分の元に行われたのが、
その翌年の「ハンズ・アクロス・アメリカ」なのです。

 

これは、寄付金を納めると、
後日、「自分が手を繋ぐ場所・日時」が指定され、
その手を繋ぐ人のラインで、
太平洋から大西洋まで、
アメリカを横断してしまおうというイベントでした。

しかし、当初の思惑通りの寄付金も、人も、集まらず、
集めた3400万ドルの内、1900万ドルが経費(?)で消え、
人の手を繋ぐラインも、
アメリカ大陸を横断する事はありませんでした。

 

パンフレット記載の監督インタビューに拠れば、
ジョーダン・ピールは、
このイベントに、子供ながら、強烈な違和感を覚えたそうです。

アメリカの貧困層を救済するのなら、
直接、貧しい人に物資を届ければ良いじゃないか

みんな、手を繋ぐ事で、自分が何かしたような気持ちになり、
実際に必要な事を、しないで終わってしまうじゃないか、と。

この、偽善的な行為に対する不信感が、
監督が『アス』を作る原動力となっています。

この自分の不信感を、
他人が観ても、分かるように、
作品に落とし込んでいるのです。

 

この頃以降から、
アメリカ社会は、
福祉の削減と、富裕層優遇措置により、
貧富の差が拡大して行きます。

そして現在、アメリカの社会は、
上位5パーセントの富裕層が、
全体の95パーセントの資産を独占しているとさえ、言われています。

 

「ハンズ・アクロス・アメリカ」の失敗に見える、
本音と建て前の二面性は、

本篇における地下居住者「デザード」(Tethered:縛られた)の設定に活かされています。

アデレードのドッペルゲンガー、レッド曰わく、

「テザード」は、
本来、富裕層を操る為に生まれた、クローン生命である、

しかし、
実験は失敗し、
政府は、生まれた生命を、地下に放置する事にした、
との事。

 

オリジナルと魂が繋がっているテザードを使って、
富裕層の行動を操ろうとしたが、
失敗したという本作の設定。

それは、

貧困層の窮状を利用して、
富裕層から寄付を集めようとしたが失敗し、

結果、
格差が拡大し、
社会全体が貧困層を無視する事となった、
その象徴とも言える「ハンズ・アクロス・アメリカ」という実在のイベントと鏡映しなのです。

 

見捨てられたテザードとは、社会の貧困層の事であり、
それに気付かず裕福な生活を送るオリジナルが、富裕層と、
それぞれ対比されています。

つまり端的に言うと本作は、

社会は、貧困層の犠牲の上に成り立っており、
それすら意識せずに、
自分が恵まれているとう自覚が無いまま生きる富裕層は、
傲慢であり、罪深いのだ、
それを糾弾し、問題提起する作品と言えるのです。

 

 

以下、本篇のオチに触れた記述となります

 

 

  • 無関心という「罪」

「自分が恵まれていることを自覚せずに、不幸な人たちの事を見ないふりをするのは無責任だと思う」
(パンフレット p.7 より抜粋)
とは、監督のインタビュー時の言葉であり、

これこそ、
本作が訴えるメインテーマと言えます。

また、
父親ゲイブは、監督自身が投影されているという、
役を演じたウィンストン・デュークのインタビュー記事にも、

本作を読み解くヒント(というか、モロに解答)が載せられています。

 

『アス』は、プリヴィレッジ、恵まれた生活を守る事がいかに暴力的なのかを描いていると思う。豊かさは暴力によって支えられているんだ」

「何もしていないから善人というわけでもないし、犯罪を犯すから悪人というわけでもない」

「恵まれている罪というと「私は誰も傷つけてない。ただスマホでインスタグラムをしているだけです」と反論する人も多いだろうね。でも、そのスマホを実際に組み立てた地球のどこかの貧しい労働者のことは考えたこともないだろう
(上記括弧内、いずれもパンフレット p.9 より抜粋)

 

正直、
こういう、キリスト教的な道徳観というか、倫理観は、
現代の日本を生きる私達にとっては、
ある種の衝撃なのではないでしょうか。

現代の日本では、
社会的に成功するか否かは、本人の努力次第。

その帰結は、全て、自己責任によって賄われるというのが、
社会的な常識として通底していると認識しています。

しかし、
そういった、我々が普通の教育、普通の生活として享受していた状況自体が、
実は、
他の誰かの犠牲の下に成り立っている

その現実を見ていないだけなのだと、
本作は気付かせるのです。

 

さて、本作のオチは、
いわゆる、ホラー映画に特有の衝撃のラスト。

しかし、
ホラーやミステリ作品を見慣れた観客には、
このオチは、ある程度予想出来たのではないでしょうか。

ちゃんと、作中に、それが分かる伏線も張られています。

その1:
冒頭、アデレードがテザードと出会うシーンで、
その詳細が描かれなかった。
発見後、喋れないというのも、怪しい。

その2:
双子姉妹の片割れを殺す時、
必要以上に暴力的であり、
しかも、その様子を目撃した息子のジェイソンが引いていた。

その3:
致命傷を負ったレッドが口笛を吹き、
その口笛を止めさせるかの様に、残酷に首を絞めるアデレード、
彼女は、まるでテザードの如くに唸っており、
これも目撃したジェイソンは、怖がっていた。

これらの描写に、観客は違和感を覚えます。

果たして、
現代のアデレードこそ、元々はテザードであり、
レッドこそ、1986年に、
デザードと入れ替わった、本物のアデレードだったのです。

 

それにしても、
アデレードと、
テザードであるレッドを演じたのは、同じルピタ・ニョンゴですが、

一方は、ロリ風の見た目の若奥さん、
一方は、血走った目を剥きだした狂気の存在、

それを演じ分けているのが、すごいですね。

というか、眉毛の有り無しで、
顔の印象って、大分違うのですね。

 

閑話休題、

しかし、
オチの状況が読めたからと言って、
それがつまらない訳ではありません。

むしろ本作のオチは、その意外性というより、
作品のテーマ性と密接に関わっているからこそ、
衝撃を与えるものとなっているのです。

 

ラストシーンは、
アデレードは、自分が、かつてデザードだった事を忘れており、
それを思い出したかのような演出的な描写となっています。

これは、
かつて、自分が貧困層であったとしても、
現在、恵まれた生活を送っているのなら、
そういう貧しい自分の来歴にすら、見向きもしなくなる
という事を物語っています。

 

富裕層は貧困層を無視し、
自分の代わりに、窮状に瀕している人間がいるという事を、気にもしない

アデレードこそ、その象徴のキャラクターだったと、
ラストで明かされ、
オチ自体が、
観客を作品のテーマへと導く里程標となっているのです。

 

この構成の鮮やかさが見事であり、
ホラー的な後味の悪さよりも、
ミステリ的な、謎が解けた爽快感みたいなものすら感じます。

 

さて、本筋とは違いますが、
ラストのラスト、
自分が、テザードであると自覚したアデレードですが、

その事実に、ジェイソンは気付いている様子です。

しかも、ジェイソンは、これまた不気味な薄笑いを、
アデレードに投げかけます。

これは、何を意味しているのでしょうか?

 

作中に明確な答えは無く、
これは、観客の解釈に委ねます、というヤツですね。

考えられる線は、

1:
ジェイソンにとって、母親である事は変わりが無いので、
別にテザードであろうがなかろうが、どうでも良いという笑み。

2:
実はジェイソンは、
海辺で便所に行った時に、
ミラーハウスのアトラクションに行っており、
その時、
彼もテザードと入れ替わっていたのかもしれない。

ざっと、
この二つが思いつきます。

「2」の線は薄いですが、
しかし、この可能性も無い事は無い、

あの薄笑いには、そう思わせる不気味さがある、
そこが、面白い所と言えます。

 

  • 仕込まれた意図

こうして観てみると、
本作は、実に、構成に気を遣った作品だと解っていただけたと思います。

その事を証明するかの様に、
本作は、
その細かい設定も、意味を持って作り込まれています。

 

まず、
デザードの衣装、
赤いツナギに右手に指ぬきグローブというのも、
ちゃんと意味があります。

赤という色は、
マイケル・ジャクソンの楽曲『スリラー』(1983)のPVで、
マイケルが赤いスタジャンや革ジャンを着ているから
(因みに、PVの監督はジョン・ランディス)

作品の冒頭で、
アデレードが欲しがったTシャツが、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」Tシャツでしたね。

 

参考、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のPV

 

 

 

ツナギなのは、
映画『ハロウィン』(1978)のシリアルキラー、
レザーフェイス(マイケル・マイヤーズ)がツナギを着ているから

革の指抜きグローブは、
『エルム街の悪夢』(1984)のフレディの鉤爪付きグローブを意識しているとの事。

 

衣装をデザインしたのはアデレード。

いやぁ、アデレードさん!?
あなた、生粋のホラーマニアじゃないですか!

チェンジリング(入れ替わり)が起こったのは、
1986年なので、
彼女にはその年までの、ホラー作品の知識を動員して、
相手に効果的に恐怖を与えようと、
コラージュ的な衣装を作っているのですね。

それを考えると、
息子の名前がジェイソンなのは、
あの、『13日の金曜日』(1980)を意識しているのでしょうね。

 

武器がハサミなのは、
監督曰わく、
日常的なもの程、恐怖感が増すからとの事ですが、

それに加えて、
オリジナルをハサミで襲う事で、
テザード(縛られた)の「束縛を裁つ」という意味も、
込められているのです。

 

そして、ウサギ

ウサギの耳は、何となく、ハサミっぽい形をしていますよね。

また、
ウサギは、『不思議の国のアリス』にて、
アリスを地下世界へと誘う先導者ですし、

イースターでは、
復活祭の卵(イースター・エッグ)を運んで来るものでもあります。

救世主の復活を祝うイースター、
卵は生命、ウサギは多産の象徴であり、

本作においては、
テザードの救世主はレッド(アデレード)ですし、
ウサギは、増えるだけ増えて放置されたデザード自身の存在になぞられられています

 

作品の冒頭と、
中盤辺りでも出て来た、
「エレミヤ書11章11節」とは?

エレミヤ書11章11節は、
聖書の一篇。

ウィキソースの口語訳から引用すると、

「それゆえ主はこう言われる、見よ、わたしは災を彼らの上に下す。彼らはそれを免れることはできない。彼らがわたしを呼んでも、わたしは聞かない。」
(上記括弧内、ウィキソースのエレミヤ書11章11節の部分を抜粋)

この部分のみを抜粋しても、
イマイチ、意味を掴みかねますが、

その前の節からの流れでは、

自分との契約を破棄した者、
他の神を信仰した者に対して、罰(災い)を与え、
彼達の泣き言に対しては、聞く耳持たない

という宣言をした節なのだと言えます。
(私の解釈では)

まるで、
テザードという存在(貧困層)を無視し、
あまねく愛をもたらす唯一神では無く、
他の神(豊かさ)に耽溺する富裕層に対して罰を与え、
彼達の命乞いには、耳を貸さないという宣言であるとも、解釈できないでしょうか。

 

この様に、
様々な、小ネタが、
設定に込められており、

如何に、頭を使って、
気を遣って、
本作は作り上げられているのか、
それが解ってもらえると思います。

 

 

 

自分自身が襲いかかって来るという、
圧倒的な違和感と恐怖。

ドッペルゲンガーと対決する、
サバイバル・ホラーである本作は、

そのラストにて、
チェンジリング(取り替え子)ネタをぶち込んで来るという、
オチの嫌らしさも鮮やかです。

 

そういう直接的な恐怖の描写のみならず、

本作は、
そのテーマとして、社会的な問題点、
豊かさを享受する、無自覚の罪をあげつらっています。

パンフレットの役者インタビューを読むと、
子供組は、サバイバル・ホラーの部分に興奮し、
大人組は、格差社会について思いを馳せているのが興味深いです。

 

人は、
持っていないモノを失うより、
既に持っているモノを失うほうが、
より苦痛を感じると言います。

例えるならば、
1:五万円を確実に貰うか、
2:5割の確率で10万円を貰うか、
という二者択一の場合、
多くの人間が、「1」を選びます。

しかし、
1:五万円を確実に失うか、
2:5割の確率で10万円を失うか、
という二者択一の場合は、
多くの人間が、丁半博打の「2」を選ぶというのです。

 

本作でも、
持たざる者であるテザードは、
奇襲により相手を殺す事に特化していますが、

実際に、覚悟したオリジナルと対峙した場合、
より、暴力的な存在なのは、
むしろ、オリジナル(富裕層)の方だと描かれています。

 

豊かさは、
貧困層の犠牲の下に成り立っており、
豊かさを守る為に、
人は、いくらでも残酷になる

本作を観た我々自身に、その事を突き付ける、

それが『アス』という作品なのではないでしょうか。

 

 

監督の前作『ゲット・アウト』について語ったページは、コチラ

 

現在公開中の新作映画作品をコチラのページで紹介しています。
クリックでページに飛びます

 

 


スポンサーリンク