映画『友罪』感想  罪を犯した者は幸せになってはいけないのか!?

 

 

 

町工場に試験採用された二人の人物。益田は元ジャーナリスト。そして、他人との関わりを拒絶する鈴木。二人は寮の部屋が隣同士であり、徐々に打ち解けて行くのだが、同じ町内にて小学生が殺害されるという事件が起こる、、、

 

 

 

 

監督は瀬々敬久
ピンク映画出身の映画監督。
最近の監督作に、
『感染列島』(2009)
『64-ロクヨン- 前編/後篇』(2016)
『8年越しの花嫁 奇跡の実話』(2017)等がある。

 

原作は薬丸岳の小説『友罪』。

 

出演は、
益田純一:生田斗真
鈴木秀人:瑛太
藤沢美代子:夏帆
杉本清美:山本美月
白石弥生:富田靖子
山内修司:佐藤浩市 他

 

 

元ジャーナリストの益田と、
過去に訳ありの鈴木。

この二人の不器用な友情を描きつつ、
過去に息子が児童を飲酒運転で死傷させた山内の生活をも描写する本作。

彼達だけではなく、
藤沢、そして白石も、自らの何らかの過去に苦しめられています。

本作は、

過去の行状によって、
現在、苦しみながらも生きている人間の様子を描いた作品です。

 

 

さて、本作は「神戸連続児童殺傷事件」(1997)を、
そのアイデアの元としており、

映画の宣伝でも「少年A」という煽り文句が踊っています。

しかし、
そのアイデアの源泉がそこにあるのは事実ですが、

実際には、「神戸連続児童殺傷事件」や「少年A」そのものを扱った作品ではありません。

 

むしろ、本作は、

犯罪が起こった後、
その当事者はその後、どの様な人生を歩むのか?

 

その事に焦点を当てた作品と言えます。

 

その話も、一本筋では無く、

様々な人間の「人生のその後」を描いた群像劇。

 

テーマが重く、苦しい感じなのですが、
人生というものの生き辛さそのものを描いた作品、
『友罪』はそう言えると思います。

 

 

  • 『友罪』のポイント

罪を犯した人間の、その後の人生

人生が壊れてしまった人間の群像劇

罪と罰とマウント

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 罪と罰

本作『友罪』は、
犯罪加害者、被害者、関係者、
彼等の事件、その後の人生を描いた作品です。

本作品のテーマ、その第一にあるものは、
犯罪を犯した人間は、その後幸せになってはいけないのか?
という問いかけです。

 

過去に児童を殺傷し、
現在は偽名で町を流れながら生きている鈴木(本名:青柳健太郎)。

中学生時代、
苛められていた友人に、最後の一押しをして自殺に追い込んでしまった益田。

飲酒による危険運転致死傷罪を犯し、
児童を殺した息子を持つ山内。

 

人との交わりを避け、
自罰的というか、人生の楽しみを捨て、
しかし、それでも生きていたいと慟哭する鈴木。

益田は過去に犯した自分の罪が許せず、
理想を体現しようとするが、それも叶わず腐った人生を送っています。

この二人が、
お互いの影の部分に惹かれたのか、徐々に打ち解けて行きますが、

それでも益田は最後の部分で鈴木を信じる事が出来ません。

 

鈴木は、
自分が児童を殺傷したという事を語ります。

そして、益田にもその自分を苦しめる過去を語るように頼みます。

しかし、益田はそれを拒否、
自分が楽になる為に、同族意識が欲しいのか?」
被害者に対する罪の意識は無いのか?」
と詰ります。

お前は自分の事しか考えていないと益田は鈴木を責めます。

 

益田は、
正論を言って、そしてマウントを取っている形ですが、
その根本にあるのは、
彼自身の罪、友人を見捨てたという事実。

益田は、自分の過去を語るという一線を越えることで、
鈴木と本当に打ち解け友人となるのを恐れているのです。

自分の罪の清算をしていない益田は、
自分が他人と友人になる事に抵抗があるのです。

 

自分が過去に犯した罪に苦しみながらも、それでも生きていたいと願った鈴木の「友人になりたい」という思い、

それは、益田自身の罪の意識が邪魔して、叶わないのです。

 

  • 謝罪の人生のルーティンワーク

一方、山内は、
過去に息子が犯した罪で、一家離散を選びます。

一度家族を解散して、世間の耳目から逃れよう、
その代わり、被害者家族には謝罪を続けようという人生を送っています。

しかし、
一見過去の罪を償っている様なこの行為も、
実は、独りよがりなねじれた事態とも言えるのです。

 

本作で、最も印象的なシーン、
山内が義弟に土下座して謝るシーンがあります。

このシーン、
一目見て私は、
「あ、佐藤浩市さん、『64-ロクヨン-』でやったのと同じ土下座している」
「何だか、やり慣れてるな」
と思いました。

その直後、義弟に、正に
あんたは、謝り慣れてるんだよ」と指摘されます。

 

これには驚き、なんと、山内を演じた佐藤浩市さんは、
意図して土下座にやり慣れた感を付与していたのです。

 

この、義弟や観客が見て分かる、やり慣れた土下座(謝罪の態度)。

それは、当の謝罪される被害者側にも充分に伝わっているのですね。

表面的には真摯な態度、
しかし、その行為は既に、ルーティンワークと化している
だから、ある被害者側は山内を拒絶し、
また、ある被害者は事件を犯した息子の方ではなく、山内を責めているのです。

山内の謝罪は、上っ面だけのポーズだと、皆に見抜かれているのです。

 

それもそのハズ、
山内は、一家離散を選びますが、
その心の中では、再び家族が合流する事を願っていたからです。

この事、どうして責められましょうか?

 

しかし、山内のその願いも叶いません。

当の息子は、山内や母と合流する事よりも、
自分で新たな家族を作る事を選択してしまうからです。

山内の家族が復活する夢は、断たれます。

だから山内は、
「お前の為に一家離散したのに、お前が家族作ってどうする」
と、正論を打って息子を詰るのです。

しかし、その本心は、
自分が捨てられた様な寂しさ
そして、家族を新たに作って人生をやり直そうとする息子への羨望があります。

 

世間から隠れる為、
一家離散を選び、謝罪のみの人生を送り、
しかし、いつかは家族と合流出来る、
叶わぬと知りながら、それを心の支えとしていた山内。

その願いは、息子の結婚によって、断たれますが、
それでも、それを受け入れた様にも最後には見えます。

また、
自分が取り返しの付かない事をしたと認識し、
そんな自分が許せなくても、生きていたいと願う鈴木

自分が友人を見捨て、どうしても人と本当に打ち解ける事が出来ない益田。

一時の救いがあっても、犯罪を犯した後の人生は、
決して解放される事は無い

どの様に生きるのか?

その明確な答えを得る事が出来ないまま、映画は終わってしまいます。

 

  • 唾棄すべき好奇心という無関心

本作は、心の壊れた人間の群像劇となっていますが、
そうでは無い、一般人として山本美月の演じる杉本清美というキャラクターがいます。

この人物が、正に唾棄すべき卑劣さ。
あまりの他人への無感覚さに反吐が出ますが、
しかし、これは世間一般の好奇の目を表現したキャラクターと言えます。

 

元恋人という益田に会うなりマウントを必死にとる様子、
そして、鈴木の映像を勝手に使用しておいて、悪びれない図太さ。

結局、人間というのは、
自分に関係無い人間の不幸こそが一番楽しい
それをオカズにして食う飯が美味いという典型的なキャラクターなのです。

 

現在、罪を犯した人間は、それこそ一生叩かれます。

「コイツは悪い人間だから、叩いていいのだ」
という大義名分を得ると、
それこそ、日頃のストレスを発散するかの如く、
全く関係無い人間も、その人間を集団で叩き出します。

赤信号なら渡れなくても、
みんなで渡れる青信号なら、何しても良いだろうが、文句あるのか?

という社会になっています。

 

なので、謝罪時は、見ている人間の方が逆に
「もういいよ」と言ってしまう位平身低頭する必要があります。

それこそ、
SMAPの謝罪会見とか、
TOKIOの山口メンバー事件に関する他メンバーの謝罪会見などはその典型です。

 

しかし、ここまでしても、
自分が過去に犯した事は、

全くの他人の気紛れな好奇心により、
無慈悲に掘り起こされてしまいます。

 

 

結局は、
先ずは取り返しの付かない事はしない
その事が大前提として肝に銘じる事になる作品、

その事だけは『友罪』において、絶対確実な事と言えるのかもしれません。

 

 

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