映画『猿の惑星/キングダム』感想  圧倒的映像クオリティが当たり前の衝撃!!

知性化した猿の第一世代のリーダー、チンパンジーのシーザーが死んでから300年。人類は衰退し、猿が独自の生活圏を築いていた。
イーグル族のノア達、幼馴染みの3匹は「絆の儀式」を明日に控えていた。しかし、トラブルで鷲の卵を割ってしまったノアは、夜明けまでに代わりの卵を採取しようと村を出る。それと入れ替わりに、村は襲撃されて、、、

 

 

 

 

 

 

監督はウェス・ボール
監督作に
『メイズ・ランナー』(2014)
『メイズ・ランナー2:砂漠の迷宮』(2015)
『メイズ・ランナー3:最後の迷宮』(2017)がある。

 

出演は、
ノア:オーウェン・ティーグ
メイ:フレイヤ・アーラン
プロキシマス・シーザー:ケヴィン・デュランド
ラカ:ピーター・メイコン
トレヴェイサン:ウィリアム・H・メイシー 他

 

 

初代『猿の惑星』(1968)から数えると、シリーズの10作目、

リブート版『猿の惑星:創世記』(2011)のシリーズから数えると、
4作目である本作『猿の惑星/キングダム』。

『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)シリーズでゴラムを演じた
アンディ・サーキスが主役のシーザーを演じたリブート版シリーズは高い評価を受けました。

本作は、
そのリブート版が3部作で一区切りした後の、
新シリーズ

 

先ず、本作で目を惹くのは、

その圧倒的なクオリティの映像

 

猿が普通に喋って動いているのですが、
それに違和感がありません!!

でも、よくよく考えてみると、
猿が喋って、知性を持って行動しているという事、
それ自体が、違和感のハズ!

その違和感を感じさせないほどの、
CGのクオリティなのです。

 

『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(2022)も凄かったですが、

本作も、
違和感の無い凄さ
という意味では、比肩する映像レベルです。

 

本シリーズは、
役者をモーションキャプチャにて、
わざわざCGで猿に変換しているのですが、

その手間を掛けた
豪華なCGアニメとも言えるのではないでしょうか。

 

しかし本作、
映像クオリティだけではありません。

倫理観、価値観を覆すかの様な、
複雑な気持ちになるストーリーもウリの一つ。

 

「猿の惑星」シリーズに共通するテーマが、
本作でも描かれています。

 

映像の凄さで目を惹きつつ、
ストーリーの面白さでも唸らせる。

「猿の惑星」のシリーズ最新作、
『猿の惑星/キングダム』
期待に違わぬ面白さの作品です。

 

 

  • 『猿の惑星/キングダム』のポイント

最早、実写レベルの猿の映像クオリティ

価値観を揺さぶるテーマ、ストーリー

権力闘争

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

 

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  • 圧倒的映像クオリティ

本作『猿の惑星/キングダム』を観て、
先ず驚愕するのが、その映像クオリティの高さ。

 

昔の「猿の惑星」シリーズは、
役者に特殊メイクを施し、
二本足で歩く、知性化猿を演じていました。

しかし、新シリーズの「猿の惑星」は、
役者の演技をモーションキャプチャで取り込み、
フルCGで猿を描写しています。

これが、
我々が普段知る、
動物園やTVで見る「猿の生態や動き」そのものであり、

身体機能はそのままで、
脳が知性化した存在として、
イメージ的に受け入れ易い、想像し易い
画となっています。

その造型が、ピッタリで凄いンですよね。

 

  • 猿と人間

さて、本作は、
前作、前前作で監督を務めたマット・リーヴスに代わり、
ウェス・ボールが新たに監督に就任しています。

彼は元々、
「マウス・ガード」という、
喋るネズミの映画を準備していたそうです。

しかし、
20世紀フォックスがディズニーへ合併された事で、
企画がオジャン。

で、
折角、VFXの技術を学んだのなら、
という事で、
「猿の惑星」新シリーズの監督に勧誘されたそうです。

 

監督曰わく、

三部作で綺麗に終わったので、
続篇に興味は無かったけれど、

シーザーの死で終わった三部作から、
1968年版の『猿の惑星』へと続く過程を描くならば

テーマ的にも面白いものが作れる(かもしれない)
と、思い、
監督を請け負ったそうです。

 

これまでの設定として、

『猿の惑星:創世記』(2011)では
「猿インフルエンザ」の流行で、
猿が知性化し、
一方、人間には致死性ウィルスだった

それが世界中に蔓延した後の様子が、
『猿の惑星:新世紀』(2014)で

猿の惑星:聖戦記』(2017)では、
「猿インフルエンザ」が変質し、
「新型猿インフルエンザ」は更に感染力を増し、
人間を痴呆化させ、
一方、猿のカリスマ・シーザーが死亡する、

という所まで描かれました。

 

本作は
そこから300年後。

初代の『猿の惑星』では、
人間は猿の奴隷になっていましたが、

本作では、
人間を狩ったり、追い払ったりする事はあっても、
捉えて家畜化する所までは、行っておりません。

奴隷として使役しているのは、
あくまでも、
同族である猿に留まっています。

 

本作が好評で、
今後も続篇が作られて行くならば、

この、猿と人間の、
生物としての権力闘争の過程が描かれて行くのかもしれません。

 

  • 価値観の転換

初代の『猿の惑星』は、
人間に知性が無く、猿の奴隷になっているというのが、
先ず、最初に衝撃を受ける設定の作品でした。

 

しかし、人間も支配的生物として、

他の動物
犬や猫をペットとし、
牛、豚、鳥を家畜化し食肉にしています。

人間が奴隷化している事に嫌悪感があるというのなら、
そもそも、
他生物を家畜化している現在の人間の生活状況そのものにも、
倫理的嫌悪感を抱くべきではないのか?

人間が家畜化された事に対する嫌悪感は、
只の、同族擁護でしかないのではないか?

そういう葛藤を、
作品の鑑賞にて、抱いてしまいます。

 

リブート版新3部作に於いては、

主人公のシーザーが、
境遇的にも、性格的にも、
感情移入し易い魅力的な人物(猿)なので、
観客は、
シーザー目線で物語を享受します。

しかし、
シーザーの行動を受容する事は、
即ち、
結果的には、人類の衰退を容認する事に繋がってしまいます。

これまたそこに、葛藤が産まれてしまうのです。

 

さて、
そういう倫理的な葛藤があるのが、
「猿の惑星」シリーズのストーリー、テーマ的な魅力ですが、

それを本作も、受け継いでいます。

 

本作は基本、
イーグル族の青年ノアの成長物語(ビルドゥングスロマン)となっております。

故郷を焼打ちされたノアが、
冒険の後、同族を救出し、
村を再興する。

典型的な「行きて帰りし物語」を基本として、
そこに、
「猿の惑星」ならではのテーマ性を絡めています。

 

冒険の途中、
オランウータンのラカ、
人間の少女、メイと出会います。

ラカは、
当初喋らなかった知性のありそうな少女を、
ノヴァと名付けますが、
後に、自身によりメイという名だと知らされます。

ノヴァは、
『猿の惑星:聖戦記』にて、
変異型猿インフルエンザを砦に持ち込んだ、
ストーリー上の重要なキャラクターです。

つまり、
砦を壊滅させる存在であると、
過去作を知っていたなら、暗示されていると気付くのですね。

 

さて、
プロキシマス・シーザーの奴隷徴収部隊に、
両親、家族を含む、村ごと壊滅させられたと語るメイ。

どうやら、
ノアと同じ境遇である様です。

又、
300年前のシーザーを信奉するラカは、
「猿と人間が協力する事が、より強くなる」という教えを守り、

ノアとラカの両者は、
人間のメイと行動を共にします。

 

一方、
各地の村から猿の同族を徴収し、
自らの王国(キングダム)を作らんとするプロキシマス・シーザーは、
自分の良い様にシーザーの教えを「切り抜き」し、
ある種のカリスマとして君臨しています。

その狙いは、
シェルターの中に存在する、
過去の人類の叡智たる遺物であり、

そのシェルターの扉を破る為に、
海水を堰き止め
猿を労働力として使役しています。

しかし、
扉を破る決定打に欠ける為に、
知性のある人間であるトレヴェイサンを囲い、
メイにも価値を見出し、
ノアに、仲間にならないかと勧誘するのです。

 

搾取される平和主義の猿、
狩られる人間、
暴君のプロキシマス・シーザー、

一見すると、こういう構図が成り立っています。

 

しかし、そういう「先入観」が崩れるのは、
メイがリアネイキッドチョーク(後方裸絞め)にて、
トレヴェイサンを殺すシーン。

メイは、プロキシマス・シーザーを出し抜いてシェルターに侵入する為に、
ノアに協力を要請します。

しかし、決行直前に、
トレヴェイサンに見つかり、
口止めの為に、メイは躊躇無くトレヴェイサンを殺します。

それを目撃したノアやスーナ、アナヤはドン引き。
観客である我々も、
「猿は猿を殺さない(同族を殺さない)」というシーザーの教えを知っているので、
目的の為には手段を選ばないメイの同族殺しに、
言いようも無い不安と嫌悪を覚えます

 

素手の柔術で人を殺す技術、
目的の為に手段を選ばないメンタリティ、
多数の猿が巻き込まれて、溺死すると解っていながら、
ダムを爆破した非情さ、

村を襲撃されて、逃げていた人間メイ

と、思われていましたが、

実は、
密命を帯び、訓練されたエージェントであると判明するのです。
そのミッションは、
シェルター内の通信プロトコル(=規約、手順)のようなものの確保、
それに付随して、
猿に武器系統の遺物を渡さない事の様でした。

 

これを踏まえて考えると、
実は、
プロキシマス・シーザーの主張も、
強ち間違いでは無かったと気付くのです。

思えば我々も、
生活の方便を得る為に、
会社と「奴隷契約」しています。

また、
支配者として勢力を拡大する為に、
他を排除し、
資源の確保に努めるのは、国単位でも普通に行っています。

創業者の理念を偶像化し、
会社経営の為に利用する事は、
二代目などの、後続の後継者は普通にやっている事です。

 

人間を信用するな、
猿の為に、遺物を確保しろ、
協力(実際は奴隷契約だが)する事は力だ

どれも、正しかったと、
ノア自身、メイに対して言い放ちます。

 

物語としては、
感情移入し易いノア目線で受け入れるのですが、

それで目にするのは、
目的の為には手段を選ばない、
衰退したとしても、非情さを失わない人間の強欲さです。

地上の全てのものを手に入れるまで、
止まらないのか、と。

 

物語としては猿目線で進み、
人間は被害者だと思われたら、

実は、
人類の非情さを見せつけられる。

この価値観の転換が、
本作の面白さであると言えるのではないでしょうか。

 

ラストシーン、
通信プロトコルを得た人間は、
地下の隔離された生活圏で、
他のシェルターとの通信手段を得ます。

アンテナが起動した様子をメイは見るのです。

 

一方ノアは、
スーナを伴い、ラカと最初に遭遇した場所(?)に赴きます。

そこで、スーナは望遠鏡を覗き、
星を見て、天体観測をするのです。

 

通信で、地上を這い回り、喜ぶ人間、

しかし、猿は遥かに上の星を観測していた。

より、伸び代があるのは、どちらなのか?
この対比で、本作は終了します。

 

 

圧倒的な映像クオリティの高さで魅せる『猿の惑星/キングダム』。

しかし、過去の「猿の惑星」シリーズ同様、

見た目の衝撃だけに囚われず、
価値観や倫理観を揺さぶる様な、
そのストーリー性、テーマ的にも興味深く、面白いものを作り上げています。

新しいスタッフ、キャストにより作り上げられた新生「猿の惑星」。

本作が好評なら続篇が作られるでしょうし、
是非、それを観てみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

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