1939年、素性の知れないスタンは流れ着いたサーカスにて、座長のクレムに誘われ働く事になる。
そこでベテラン団員から「読心術」を学び、サーカスの花形・モリーを誘い出奔する。
2年後、二人は高級ホテルでショーを行う程になったのだが、、、
監督は、ギレルモ・デル・トロ。
メキシコ出身。
オタク趣味、日本贔屓の監督として知られていたが、
『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)にて
アカデミー賞の作品賞、監督賞を獲得した事で、一気にメジャーとなった。
他の監督作に、
『クロノス』(1993)
『ミミック』(1997)
『ブレイド2』(2000)
『ヘルボーイ』(2004)
『パンズ・ラビリンス』(2006)
『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(2008)
『パシフィック・リム』(2013)
『クリムゾーン・ピーク』(2015) 等がある。
原作は、ウィリアム・リンゼイ・グレシャムの『ナイトメア・アリー 悪夢小路』。
出演は、
スタントン・カーライル:ブラッドリー・クーパー
モリー・ケイヒル:ルーニー・マーラ
リリス・リッター博士:ケイト・ブランシェット
ジーナ・クルンバイン:トニ・コレット
ピート:デヴィッド・ストラザーン
クレム:ウィレム・デフォー
ブルーノ:ロン・パールマン
エズラ・グリンドル:リチャード・ジェンキンス 他
今や、
押しも押されもしない人気俳優、
ブラッドリー・クーパー。
『世界に一つのプレイブック』(2012)
『アメリカン・ハッスル』(2013)
「マーベル・シネマティック・ユニバース」の
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)シリーズの、
ロケットの声 etc…
色々と、話題作、人気作が多いですが、
ファンに最も評価されているのは、
監督も兼ねた『アリー/スター誕生』(2018)
なのではないでしょうか。
そして今回、
再び「アリー」の作品に出演するブラッドリー・クーパー。
まぁ、
「アリー」は「アリー」でも、
人名の固有名詞では無く、
「alley(小路)」という意味の「アリー」なのですがね。
という訳で、
『ナイトメア・アリー』即ち、
「悪夢小路」です。
前作『シェイプ・オブ・ウォーター』がラブファンタジーであり、
オタク気質では無い、
女性の映画ファンも、観る事が出来る作品でした。
で、
その路線を狙った(?)のか、
日本オリジナルのプロモーションとして、
大沢たかお(ブラッドリー・クーパー)と、
檀れい(ケイト・ブランシェット)が掛け合いでナレーションする
予告篇CMが作られていました。
ニュアンス的には、
愛憎の駆け引き的な、
ちょっと、オシャレ映画の雰囲気を漂わせていたのですが…
いやいや!!
皆、騙されちゃぁ、いけませんぜ!!
『シェイプ・オブ・ウォーター』が、
ラブファンタジーであり、
巡業サーカス、
いわゆる、カーニバルが前半の舞台ということ、
又、
「人を操る術を手に入れた」という予告篇のフレーズから、
本作も、その路線を踏襲しているかと思わせておいて、
差に非ず。
ファンタジーというよりも、
むしろ悪夢、
徹頭徹尾、現実的な
悪徳と悲劇の物語となっております。
時代設定が1930年代、
カーニバルが舞台なので、
幻想的な雰囲気のガワだけまとっていますが、
本作はノワール作品。
例えるならば、
漫画の『闇金ウシジマくん』の
1エピソード的なイメージですね。
ギレルモ・デル・トロ作品と言えば、
超自然的な、ファンタジー要素のある作品、SF作品のイメージがあるのですが、
本作には、その要素の無い、
骨太な作品となっております。
ハッキリ言うと、暗い。
この作品それ自体を観る人が、
悪夢の小路に迷い込んでしまう、
そんな印象を受ける作品です。
なので、
これまでのギレルモ・デル・トロ作品のテイストが好きだった人にとっては、
ちょっと、期待外れになってしまうかもしれません。
しかし、
それを考慮しても、
本作には、
破滅と悪徳を骨太に描いたという意味で、
硬派な面白さがあります。
監督、ギレルモ・デル・トロとしての新境地、
ファンタジックな雰囲気から、
転落して行く悪徳の物語を描く
ノワール映画、
それが、
本作『ナイトメア・アリー』と言えるでしょう。
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『ナイトメア・アリー』のポイント
ファンタジックな雰囲気からの、現実的なノワール作品
自己顕示欲と虚栄心の果て
親子、異性、同性との人物関係
以下、内容に触れた感想となっております
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作品、役柄に対するアプローチ
本作『ナイトメア・アリー』は、
ノワール作品。
一人の男が、
虚栄心と自己顕示欲に囚われる事で、
破滅へと向かって疾走して行く作品となっております。
元々、
ギレルモ・デル・トロ監督の過去作品は、
ファンタジー、SFといった、
超現実的な要素が作品を彩っていたのですが、
本作ではその要素を排し、
徹頭徹尾、現実的な
地に足の付いた描写を心掛けています。
本作においては、従来のファンは、
「ギレルモ・デル・トロはファンタジー、SF専用」というイメージを持って
映画を観に来ているハズです。
しかし、
その期待というか、予想を裏切る形で、
本作は、
ファンタジーの裏側にあるシビアな現実を突き付けるのです。
本作の登場人物、
ジーナとピートは、
一座で読心術を披露しています。
これを観る聴衆は、
ジーナが千里眼を持つ、
心霊術師に見えるのですが、
しかし、
作中では、そのトリックというか、
千里眼のネタバレを晒しています。
この二人はかつて、
技術としての読心術を駆使して活躍したそうですが、
良心の呵責か?
過去に、何かトラブルがあったのか?
ピートによると、
「自分に力があると、勘違いしてしまう」
という理由にて、
霊媒としての読心術を封印しているのです。
故に、作中、
カーニバルの観客が、
個人的に占って欲しいと言って来たら、
ネタバレをして、
謝って、お引き取りを願うのですね。
この一連のシーンは、つまり、
ファンタジー要素を期待して観に来た観客に対し、
一見、ファンタジーに見えるけれど、
本作はその要素が無い、
現実的な作品なのですよ
という事を、
暗に、観ている人にも伝えるメタ的な構成となっております。
いわば、
ファンタジーの裏側の、
それを作っている方の視点をさらけ出しているのです。
又、本作において気になった点に、
パンフレットの出演者インタビューにて、
ブラッドリー・クーパー(スタン役)と、
ウィレム・デフォー(クレム役)が共に語っていたのですが、
演技をするというよりも、
役柄の性質を理解し、
それに、即する形で、受け入れる事が大事と語っています。
ウィレム・デフォーは更に、
「役に共感する必要は無いが、ジャッジしてはいけない」とまで言っています。
この視点は、
いわゆる、役に対する「憑依型」の演じ方であり、
本作の悪徳を体現する二人が、
共に、その境地で役に臨んでいるのが、興味深いのではないでしょうか。
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親子、異性、同性との人間関係
本作『ナイトメア・アリー』において、
やはり、
一番魅力的というか、
複雑なキャラクターは、
主人公のスタンです。
冒頭、
死体が入っている(と思われる)袋を引っ張り、
穴に落とし、そこに火を付け、
家ごと焼き払う衝撃的な様子が描かれます。
そのスタンが、
疲れた様子で流れ着くのが、
巡業サーカス、カーニバルです。
この流れ者が何なのか?
一体、何があったの?
何故?どうして?何がしたいの?
こういう疑問を冒頭で持たせて、
作品が進むにつれ、
その辺りの謎を徐々に解き明かして行くのが、
本作の構成の上手さです。
しかも、
直接描写というより、
観客に推測させる部分が多い所に、
本作の面白さもありますね。
そんなスタンを理解する為に、
かれの人物関係の傾向、
親子、異性、同性との関係性に注目して見てみます。
話が進むにつれ、
冒頭の死体袋は、
恐らく、父親なのだろうと推測されます。
スタンは父親との関係が悪く、
あんたがずっと嫌いだったと囁き、
真冬に窓を開け放ち、
病気の父から毛布を剥ぎ取ります。
その後の描写はありませんが、
スタンが「父殺し」を決行したのは明白でしょう。
この、
父殺しがスタンの原罪となっています。
又、スタンは父殺しを繰り返します。
「読心術」を学ぶという名目で、
ジーナとピートのアシスタントをしていたスタン。
二人に気に入られ、
ピートはスタンを「サン(息子)」と呼びます。
しかし、
ピートは酒飲み。
作品前半の舞台、カーニバルの場面の終盤、
ピートは寝酒をスタンに頼みます。
スタンは、酒を持ってくるのですが、
その酒は、本当に酒だったのでしょうか?
途中、
クレムが酒と致死性のアルコールの違いについて語る場面がありました。
直接に描写はありませんでしたが、
スタンの酒の差し入れ後にピートが死んだ事を鑑みるに、
スタンは、意図して致死性アルコールにて、
ピートを殺害せしめたと考えられます。
父を殺して、
流浪の身となったスタン。
流れ着いたカーニバルで、
「息子」と呼んでくれる相手から、
読心術の秘技を盗む為に、殺したスタン。
その先に、
自由な希望があると信じて。
しかし、
原罪を繰り返した時点で、
それは幻であるのです。
酒飲みだった父を否定する形で、
スタンは「絶対に酒は飲まない」と宣言していたのですが、
その誓いを破るシーンにて、
スタンが、後戻り出来ない一線を越えてしまった(ポイント・オブ・ノー・リターン)事を描写しています。
男性の場合、
同性である父親との関係が悪い人間は、
実社会においても、
同性との仲が上手くいかない場面が多い印象があります。
本作では、
ノーマの父親代わりを自称するブルーノや、軍曹と、
スタンは、仲が悪いですね。
同性って結局、
異性を介して、
仲間になるか、ライバル関係になるか、ですが、
スタンの場合、悉くライバル関係になります。
ブルーノや軍曹だけで無く、
金持ちの権力者のエズラや、
彼のボディーガードのアンダーソンとも、
敵対的な立ち位置になってしまいます。
しかし、例外もあり、
父や、同僚とは上手くいかなくとも、
同性でも、上司との関係は割と良かったりします。
クレムとの関係性がそれですね。
一方、異性に対しては、
その反動といいますか、
割と、良好だったりします、
表面的には、ですが。
ジーナには気に入られ、
本音(ピートを殺した事)を示唆しても許され、
ノーマには愛を囁き、
世界をあげると喜ばせ、
リリス・リッター博士には、
金儲けの同士として、道連れの相棒とします。
しかし、
その関係性も、
あくまでも表面的、
結局は、
自身の自己顕示欲と虚栄心を満たす為のものであり、
故に、
人間関係の全てを失ってしまいます。
ジーナの警告を無視し、
ノーマには愛想を尽かされ、
リリス・リッター博士には、
逆に、利用されてしまいます。
因みに、
ジーナのタロット占いの、
最後に出た「吊るされた男」。
逆位置の「吊された男」は、
忍耐力も無く、
事態に流されるままという否定的な意味合いがあります。
正位置の場合は逆に、
良い意味で、忍耐強さを意味しますが、
本作においては、
警告の後の警告の後の警告(3枚目)であり、
自身で逆位置を正位置で変えた事は、
運命を変えるというより、
「吊された男」の見た目通りの状況へ、
自分の選択で、
破滅へ向かう事を意味していると解釈されますが、
どうでしょうか。
また、
リリス・リッター博士の名前、
「リリス」とは、
神話によると、
アダムの最初の妻で、
二人の交わりから悪霊が生まれたとあり、
スタンとリリスの関係性は、
破滅を約束されていると、名前から分かります。
全てが破滅した後、
再び流れ着いたカーニバルにて、
スタンは、獣人になる事を示唆されます。
クレムから、
獣人への誘いは罠だと聞かされていたにも関わらず、
スタンはその提案を、
むしろ、
安堵した様な、諦念の様な表情で、これが運命と受け入れます。
これにより作品は、
冒頭のカーニバルへと戻り、
その後のスタンの運命は、
前半のカーニバルでの獣人の扱いで、示唆されており、
物語は円環の構図を見せつつ、
まるで、
螺旋階段の様に、
スタンが堕ちて行く先を決定付けます。
-
悪夢小路
作中、
「ナイトメア・アリー(悪夢小路)」とな何なのか、
それは、直接には描写されません。
唯一、クレムが、
獣人を「作る」方法をスタンに説明するとき、
酒場や「悪夢小路」にて、
獣人候補を見つける、と言う場面があります。
本作における、
「悪夢小路」とは一体何なのでしょうか?
私が思うに、
「悪夢小路」とは「原罪」つまり、
過去に犯した後悔、負い目の事であり、
人は、それから逃れる為に、
悔い改めるか、
もしくは、
自分の原罪を覆い隠す為に、
自己顕示欲と虚栄心を膨らませる事になります。
この、逃れる事の出来ない負い目こそ、
「悪夢小路」であり、
自己顕示欲と虚栄心を膨らませる程に、
自身の負い目に立ち返る事になるのではないでしょうか。
故に、
その自己顕示欲と虚栄心を全て捨て去った「獣人」という存在は、
同時に、原罪や負い目をも捨て去る事であり、
だからこそ、
ラストの悲劇的なシーンに、
何処か、安堵と開放感があるのです。
ラスト直前、
一杯の酒の為に、
原罪の象徴、
父殺しのトロフィーである腕時計を手放すのは、
その象徴であるのです。
しかし、
冒頭のカーニバルの獣人は逃走を試みており、
檻に入れられ、
「俺は本当はこんなじゃないんだ」と
呟いています。
結局、
ラストで精神的に解放されたかの様に見えるスタンですが、
その後の彼は、
「こんなはずじゃなかった」と、
絶望すると決定付けられています。
本作『ナイトメア・アリー』は、
徹頭徹尾現実的、
自己顕示欲と虚栄心、
原罪という「悪夢小路」に囚われた人間の行く先を、
シビアに、残酷に描く、
骨太のノワール作品なのです。
映画化原作の翻訳を、複数の出版社が出す、
昔はよくあったのですが、最近は珍しいですね
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