映画『レリック ー遺物ー』感想  忘却という恐怖!!母娘三世代が直面する家庭内ホラー!!

森がほど近い家で一人暮らしをする母・エドナ。姿が見えないという近所の通報を受けた警察から、ケイへと連絡が入った。ケイは、娘のサムを連れて家へと向かう。そこには、無数のメモが貼り付けられており、しかし、母の姿は無かった。
認知症の疑いがあり、警察の協力も受け、捜索すれども発見出来ず。不安に駆られながらも、エドナの家で寝泊まりして数日後、彼女はひょっこり帰還したのだが、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、ナタリー・エリカ・ジェームズ
日系オーストラリア人。
本作が、長篇映画デビュー作。
脚本も担当する。

 

出演は、
ケイ:エミリー・モーティマー
エドナ:ロビン・ネヴィン
サム:ベラ・ヒースコート 他

 

 

よく、映画の煽り文句で、
「全米ナンバーワン大ヒット!」とか、
「ロッテントマト支持率99%!」とか、
「聞いたことも無い映画祭の観客賞受賞!!」とかありますよね。

最早、期待を持たせるというよりは、
「ハイハイまた言ってら」
みたいな感じで、
おばあちゃんの思い出話を聞く様な感覚があります。

 

予告篇にて、そんな煽り文句が踊っても、
映画を観に行くかどうかの指標にはならないし、
映画自体の評価が変わるという事もありません。

 

なので、
予告で、そんな文句を見ても、
普段は意識の中から削除しているのですが、

面白いマイナー作品の鑑賞後、
改めて映画の予告を観てみたら、
前述の煽り文句が記されていたりして、

「あ、やっぱり、正統に評価されていたんだ」と、
思い至る事も、ままあります。

 

毎年、数多の公開される映画の中に、
そんな綺羅星の様な「マイナー作」も偶にあり、
そういう作品に出会えた時、
映画好きで良かったなと、至福の時間を過ごす事になります。

 

で、何が言いたいのかといいますと、

本作『レリック ー遺物ー』こそ、
そういう作品という訳なのです。

 

さぁさぁ皆様、ご覧じろ。

とは言え、とは言え、
どんな映画から知らざれば、
それも叶わぬ、判断基準。

 

という訳で、
本作『レリック ー遺物ー』は、どんな映画なのか?

キャッチフレーズ風に紹介すると、

母娘孫の三世代が直面する、
リアル家庭内ホラー!!

 

と、言った所でしょうか。

 

で、
ホラー映画にも色々ありまして、

悪霊とか、悪魔系、
殺人鬼が暴れるスラッシャー映画、
人間怖い、サイコサスペンス、
ミステリ風味のスリラー映画 etc…

色々ありますが、

本作は、どれ系のジャンルかと言いますと、

超常現象が起こりつつも、
よく観ると、リアルな、現実的な恐ろしさを描いた作品です。

本作は、
この、リアルと超常現象の融合というか、
行き来の割合が、絶妙です。

それ故、

独特の緊張感のある描写が、
延々と続く事になります。

 

 

そういう意味で本作は、
真っ当な、
ストレートなタイプのホラー映画。

恐怖を扱った作品です。

 

しかしながら本作、

エンディングを迎えた時、
何故だか、
ホラー映画特有の、諦念に似た安堵感というか、
独特の感動に浸れます。

 

ユーミンの楽曲ではありませんが、
「優しさに包まれたなら」うんたらかんたら
って感じです。

 

『レリック ー遺物ー』は、
身に沁みる、現実的な恐ろしさを、
超常現象を以て表現しながら、

最後には、感動させる。

何ともはや、
離れ技を観せてくれる作品なのです。

 

 

 

  • 『レリック ー遺物ー』のポイント

認知症

家の中で迷子

リアルと超常現象を行き来し、最後は感動(?)を迎えるエンディング

 

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

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  • 認知症

本作『レリック ー遺物ー』の監督は、
ナタリー・エリカ・ジェームズ。

「エリカ」という名前が入っているので、
何となく察する人もいるかもしれませんんが、
日系人だそうです。

その監督、
先延ばしにしつつも、重い腰を上げて、
日本に住む祖母に会いに行ったそうですが、
認知症が進んで、
既に、彼女自身が孫である事を認識出来なかったそうです。

 

そういった、自身の体験を活かしたのでしょう。

故に本作は、
超常現象を扱いつつも、
リアルな恐怖に満ちた作品と言えます。

そのリアルさとは、
「認知症」です。

 

本作のキービジュアルで、
祖母エドナ
母ケイ
孫サム の三世代が、
記念撮影の様に佇んでいる「画」があります。

そして、
もう一つのキービジュアルでは、
同じ構図でありながら、
エドナの上半身が、煙の様に消え失せています。

 

人が、人である、
そのアイデンティティである「知性」。

その「認識」や「記憶」が、
失われてしまったなら、

その人間は既に、
今までと同じ存在から変わってしまう。

愛する者が、別の何モノかになってしまい、それを止められないという、
認知症に相対する、家族の哀しみ、
そして、本人の苦しみを描いた作品、
それが本作の扱うテーマと言えます。

 

  • 家の中で迷子

失踪から帰還したエドナ。

一見、普通に見えますが、
しかし、何処か、噛み合わない部分のチラホラと。

…実は、
そういう兆候が、家族にも認識出来る様のなっているのなら、
それはもう、手遅れになっている場合が多いです。

本人は、
自身の「認知症」という状況を否定したいし、
それを隠したがるのですが、

既に、それが叶わない位に、症状が進んでしまっている、
という訳です。

 

捜索しても姿が見えなかったエドナ。

何処に行ってたのか?

実は、家の中で迷子になっていたという驚愕。
それを可能成さしめるのが、ホラー映画の特権です。

 

作中、自身の認知症に苦しむ、
エドナの描写があります。

娘と孫について、
本人が居ない場所で、
あいつら誰だ?偽物だ」と呟く、
そしてそれを、物陰で盗み聞きしてしまう恐怖。

自身の記憶が消えて行く事に恐怖し、
写真を食べたり、
アルバムを土に埋めたりする行為。

一見、
意味不明ですが、
本人の理には適っている。

何故なら、
何モノかが、
記憶を盗んでいると感じるから、
それを隠す為に、埋めているのです。

 

そして、
エドナが住む「家」自体も、
彼女の混乱を反映してか、
不穏な空気が流れています。

古い建物の「家鳴り」。

それも、ちょっと音響を大きくすれば、
忽ちホラーと化してしまう

水の流れる音とか、
何処からか、聞こえてくるノック音。

更に、
昔、近しい先祖が、
独居老人として、孤独死したという家から、

その家自体は壊し、
扉のガラス飾りだけ、
新しい家(エドナが住む家)に移したという設定。

 

ケイは、
家自体の不吉なモノを感じ、
引っ越したら?と促しますが、

エドナはそれを否定します。

夫を既に喪い、ガラス飾りも不穏でムカツクと告白しつつも、
「家のみが、私に最後に残されたもの」だと言うのです。

 

夜、トイレに行くとき、
住み慣れた我が家なら、
電気を付けずとも、歩く事が出来ます。

それと同じで、
認知症に蝕まれながらも、
エドナにとって「家」は、
無意識でも生活出来る、
最後の拠点としての役割があり、
それに縋っているのです。

 

が、
本作においては、
その最後の拠点が、既に崩れ去っている状況が、描かれています。

 

クローゼットの部屋から、
サムが迷い込んだ、謎の場所。

明らかに、家の構造からはみ出しているその部分。

その入り口部分は、
物が乱雑に散らばり、また、
「私の名前はエドナ」とか、
「あいつらは偽物だ」とか、
家の中でも散見された様なエドナのメモが貼り付けられています。

しかし、進むにつれ、
それは部屋では無く、
シンプルな通路と化し、
更には、帰り道も無く、
どんどん狭くなって行く「迷宮」となります。

 

まるで、
マーク・Z・ダニエレブスキーの小説『紙葉の家』を想起させる
この迷宮は、
エドナ自身の、記憶の混乱、喪失を反映したものだと言えます。

 

映画『メメント』(2000)では、
10分しか記憶を保てない男が、
メモを頼りに生活しています。

ですが、
そのメモ自体が嘘だとしたらどうなりますか?

本作では、
記憶を喪っても、
無意識で生活出来るハズの最後の拠り所の我が家が、

既に、自らの混乱を反映し、
エドナ自身すらも囚らえる、欺瞞の迷宮へと化しているのです。

 

エドナの失踪とは、
この迷宮に囚らえられていたのでしょう。

そして、
この迷宮内での彼女がバケモノ化していたのは、

記憶・認識の喪失が、
愛する人としての存在から、逸脱してしまうという、
恐怖そのものを表わしているのではないでしょうか。

 

  • 黒子

本作のエドナは、
時に、自傷行為を繰り返します。

まるで、メンヘラ行為ですが、
しかし、
自らの認識が失われて行くという状況において、
自らの肉体が、自分のものであるという確認行為と言えます。

そして、何故、そんな行為に至ったかと言うと、
エドナは、
「黒い染み」に肉体を侵食されているからですね。

 

その「黒い染み」は、
記憶の喪失の様子を、
まるで、対戦格闘ゲームの体力バーの様に、
視覚的に表したものだと言えます。

なので、
自身の体にナイフを突き立てて、
ここまでは、まだ痛いから、まだ自分、
ここは、もう何も感じ無い

と、確認している様に思えます。

 

そして、ラストシーン。

ケイは、
母親の「人の皮」をむしり取って、
エドナを、黒い存在そのものの、
黒子にしてしまいます。

 

人は、赤子として生まれます。

しかし、
記憶を失い、アイデンティティを喪失してしまったエドナは、
人生の終わりの存在として、
まるで、ミイラや、原爆被害者の様な、

赤子の反対の存在、黒子になってしまいます。

言うなれば、
エドナの皮を剥いたケイは、
自分を生んで育ててくれた母親を、
人生から送り出す介錯をしているという訳です。

 

本作の題名は『レリック ー遺物ー』。

「relic」という単語の和訳が「遺物」ですので、
聞き慣れない単語を、
和訳も含めて邦題にしてくれるという至れり尽くせりぶりです。

「relic」という言葉自体をグーグル翻訳すると、

昔からの物体が、そのまま残っているもの、
特に、歴史的なものだったり、感傷的な対象だったりする。

と解説されています。

 

監督は、
母方の祖母の、日本の古い家に、
子供の頃、言いようも無い恐怖を感じていたと言います。

そういう古い家=遺物自体への、
自身の恐怖が、作品に反映されていると言えます。

 

しかし、その遺物も、
すべて、忘却の彼方へと去って行きます。

作中、唯一、継承された遺物は、
「黒い染み」。

母を見送りながら、

しかし、それは、
やがて自分にも訪れる。

今度の見送る役目は、
孫のサムと成るのです。

 

そして、本作には、
ここに、
何かを諦めた、
諦念による安堵感という、
妙な、感動があります。

それは、
観客自身にも起こり得る事であり、それ故に、
皆の、共感を産むのです。

 

 

本作は、
認知症に相対する、家族側の視点にも、説得力があります。

 

祖母にもらった指輪を嵌めたケイが、
「私の指輪を盗んだな」と、当の本人に襲われたり、

現実的に、
同居の難しさを知る母ケイと、
一緒に住むべきという理想を語る娘のサムの立ち位置の違いなどです。

 

私が一番印象的なのは、
母を入れる(予定)の介護施設の下見に行った時の場面です。

このシーンで、
ケイは、施設の廊下で、
歩行補助器に寄りかかっている老人とすれ違います。

ケイを見る、老人。

これは、何でも無いシーンです。

老人も、只、
知らない人を見ているだけでしょう。

しかし、
母を施設に入れようとしているケイ自身にとっては、
老人の意図は関係無く、
自分の後ろめたさの為、
「コイツ、親を施設に入れようとしているな」という、
非難の眼差しに見えてしまうのです。

 

 

この様に、本作『レリック ー遺物ー』は、
認知症に苦しみ、哀しむ、
本人と家族の両方の視点が描かれています。

その、認知症を、
主観的に捉えた場合、
それは、ホラー的な超常現象と成り得る。

本作は、そういう視点で作られており、

それに苦しむ、
本人、家族を描きながらも、

その果てに、
妙な安らぎを見出す。

そういう恐怖と感動を描いた作品と、
言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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