郊外の町で息子の湊と暮らす、シングルマザーの麦野早織。息子から「豚の脳を移植した人間は、人間?豚?」と質問されて戸惑う。
他にも気掛かりな言動はあった。突然髪を切ったり、スニーカーの片方を無くしたり、水筒に砂利が入っていたり…
息子の突拍子のない行動を心配した早織は、湊に訴えかける。何があったのかと。すると湊は告白した。担任教師の保利にイジメられたのだと、、、
監督は是枝裕和。
『万引き家族』(2018)で、
カンヌ国際映画祭にてパルム・ドール賞を受賞。
本作はそれ以来の日本映画である。
主な監督作に、
『誰も知らない』(2004)
『花よりもなほ』(2006)
『歩いても 歩いても』(2008)
『そして父になる』(2013)
『海街diary』(2015)
『海よりもまだ深く』(2016)
『三度目の殺人』(2017)
『真実』(2019)
『ベイビー・ブローカー』(2022) 等がある。
出演は、
麦野早織:安藤サクラ
保利道敏:永山瑛太
伏見真木子:田中裕子
麦野湊:黒川想矢
星川依里(より):柊木陽太 他
『万引き家族』(2018)にてパルム・ドールを受賞し、
名実共に、日本映画を代表する監督の一人と言える、
是枝裕和。
近年はコンスタントに作品を発表している事もあり、
評価面でも、
興行面でも、
実績を積み上げており、
現在、最も脂が乗っていると言えるでしょう。
そんな是枝監督、
近年は、
『真実』(2019)
『ベイビー・ブローカー』(2022)と、
連続して海外キャストで作品を発表しており、
5年ぶりの、
日本人キャストでの作品となります。
本作は、
『万引き家族』にも出演していた安藤サクラが参加し、
そして、
出品された第76回カンヌ国際映画祭にて、
脚本賞(坂元裕二)、
クィア・パルム賞を受賞しました。
映画の公開時期が、
これまた絶妙で、
明らかに「カンヌ国際映画祭」にて箔を付けて、
国内での観客動員を狙ったマーケティングをしています。
実際、
私が鑑賞した初日(2023年6月2日)の初回上映は、
平日の午前中にも関わらず、
観客の入りは上々でした。
しかし、
ぶっちゃけ、
前作の2作品、
『真実』と『ベイビー・ブローカー』は、
何とも気の抜けた、
温い作品でしたからね。
本作も鑑賞前には、
ちょっと、身構えてしまう所です。
で、
実際どうだったのかと言いますと、
へぇ~面白いジャン!!
是枝裕和監督らしさを活かしつつ、
新しい試みが観られます。
是枝裕和監督と言えば、
その作品は一貫して、
「家族の物語」をテーマにしています。
『万引き家族』『真実』や『ベイビー・ブローカー』もそうです。
元々、
監督、脚本、編集など、
殆どの作品にて、是枝裕和自身が兼任していましたが、
本作においては、
坂元裕二が脚本を手掛けています。
外部からの視点が入った影響でしょうか、
本作は、
「是枝裕和監督って、こういう作風だよな」というイメージを踏襲しつつ、
且つ、
今までになかった感じの緊張感を孕んでいます。
そうです。
本作は、
サスペンス、ミステリー的な面白さもあります。
是枝監督らしい、
細やかな人間描写とドラマを描きつつ、
この先、物語がどう転んで行くのだろうという、
鑑賞する面白さ、興味深さがあります。
そういう意味で本作は、
エンタテインメント的な作品でもあり、
近年の、
「海外で評価されてお高くとまっちまったな」感を
醸し出していた監督作品とは、また違った印象があります。
本作『怪物』はストレートに展開、ストーリーが面白い映画なので、
やっぱり映画って、
「面白い」が正義だなって思いますね。
ちょっと上映時間は長い(126分)ですが、
それでも、
色んな人に鑑賞して頂きたい作品と言えます。
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『怪物』のポイント
是枝裕和版人狼ゲーム!?
インディアンポーカー
現実と保身の相反
以下、内容に触れた感想となっております
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『羅生門』構成
本作『怪物』は4幕構成。
ほぼ同じ時系列を、
異なる視点人物にて、
4度ループします。
他の映画で例えると、
黒澤明監督作の『羅生門』(1950)タイプの作品。
同じ「真実」でも、
それを受け止める人間が違えば、
それぞれの「事実」が存在するという話です。
最近では、
リドリー・スコット監督作の『最後の決闘裁判』(2021)も、
同じ構成でした。
しかし、
本作の『羅生門』は、
過去の作品群とは一味違います。
第1幕は麦野早織視点、
息子の湊の話から察し、
担任教師の保利からのイジメを学校に抗議に行きますが、
学校側の、のらりくらりとした塩対応に業を煮やします。
第2幕は保利道敏視点。
早織視点ではクソ教師として描かれていましたが、
何と、
彼視点では、
身に覚えの無い事で、無理矢理謝罪を強いられる様子が描かれます。
第1幕での早織視点では、
自分の主張が届かないもどかしさに憤り、
しかし、
第2幕の保利視点においても、
自分の意思とは関係無く、外堀を埋められて行く恐怖があり、
共に、視点人物が被る理不尽さに共感する事になります。
第3幕の
校長である伏見真木子視点は
インターミッション。
そして、
主旋律である第4幕の麦野湊視点にて、
ある程度の種明かしが成されます。
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人狼ゲームとインディアンポーカー
本作の題名は『怪物』。
作中でも、
湊と依里が「かいぶつだ~れだ」と、
虚ろに声を上げているシーンがあります。
その言葉と、
物語構成から想起されるのは、
「怪物」とは一体誰の事か?という疑問です。
つまり、本作、
「人狼ゲーム」的側面があるのです。
「人狼ゲーム」とは、
ザックリ言うと、
8人くらいで行う対話形式のゲームで、
村人(プレーヤー)の中に、
2人ほどの「人狼」が混じっており、
プレーヤー同士の会話にて、
その「狼」をあぶり出すというゲームです。
本作も、
ほんのちょっとしたボタンの掛け違いで、
理不尽が加速して行きますが、
そもそも、どうしてこうなったのか?
という「事の起こり」を探す点にミステリ要素が見られ、
そこに「人狼ゲーム」めいた面白さがあります。
もう一つ、
第4幕、廃電車にて湊と依里がやっているゲーム、
インディアンポーカーも、
本作のテーマと関わるものとなっております。
インディアンポーカーは、
作中でも行っていましたが、
お互い、自分の額に当てた「絵」は知りませんが、
相手の額の「絵」は見る事が出来ます。
で、
お互いが質問をし合って、
自分の額の「絵」を当てるというゲームです。
自分で思う自分=自我というものと、
他人から見た自分=パブリックイメージというものがあります。
インディアンポーカーは、
「自分は何なのか」という事を、
他者とのコミュニケーションを以て発見するゲームですが、
本作『怪物』においては、
登場人物が、
他人にどう見えるのか?という事を異常に気にしています。
さらに翻って言うと、
各個人それぞれの自己保身、自己防衛がコンフリクト(衝突)する事で、
事態があらぬ方向へ向かってしまう話であり、
それが、本作のテーマであると言えるのではないでしょうか。
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保身のコンフリクト
第1幕の麦野早織は、
保身というより、子供を守る為の行動に思えます。
しかし、
そんな彼女も、第4幕の湊視点で、
他の女との浮気旅行で死んだ夫を神聖視しており、
それが、
息子である湊の重圧になっている事が発覚します。
彼女が夫を吹っ切れない点が、
自己保身であり、
それが、湊を苦しめている事、
そして、
今回の事件の切っ掛けの一つである事に気付いていません。
第2幕の保利道敏は、
学校側の自己保身の犠牲となり、
マニュアル通りの「取り敢えずの謝罪」を強いられ続ける事で、
自らの意思が無くなり、
生贄としての尻尾切りにされる顛末が描かれます。
第3幕の校長視点、
保利に謝罪を強要した伏見真木子は、
実は、近所では、
夫では無く、自分が孫を轢き殺したと噂されており、
「学校の校長」という社会的地位の保身の為に、
夫に罪を被せたのだと言われているのです。
事の真偽は不明ですが、
いずれにしても、
伏見真木子の心が、保身の結果、
罪を認めなかったが為に、
より悪い方向に壊れてしまっている様にも観る事が出来ます。
第4幕、湊に至っては、
自分の一番の親友、というより、
好きな人物である依里が、
学校ではいじめられっ子であり、
それを看過するしかない自分、
つまり、
いじめられている依里に関わらないという事で、
学級内での自己保身を図っており、
放課後、
依里と仲良くしている自分との矛盾
そして、
学校ではイジメ、
家庭でもドメスティックバイオレンスを受けている依里の、
一番の理解者ぶっている自分の偽善ぶりにも、嫌気が差し、
そしてまた、
一番の悩みは、
自分が「依里を好き」という事が、
異常だと感じており、それを隠している事です。
それが、
第1幕での、
早織視点での奇行に繋がっていると言えます。
物語の展開としては、
湊は、依里を裏切っているという自分の罪の意識から逃れる為に、
母の早織に思わず、嘘を吐いてしまいます。
それを真に受けた早織が学校に抗議し、
異常とも言える自己保身に凝り固まった校長の指導により、
外堀を埋められた保利が犠牲になってしまった。
という形です。
状況的に、
一番の被害者は保利と言えますが、
自覚は無いのに、
他人からしたら不快に思われる言動を取る人間というのは、
現実にも居ます。
表情が暗いとか、
間が悪いとか、
空気が読めないというかんじが、
主観視点以外の部分では描かれており、
その辺りの
自分で思う自分と、
他人に見えるイメージの乖離という人物描写が、
本作では突出しています。
この様に本作では、
視点の違いによって、人物のイメージが違うのですが、
それに違和感が無い所に、
人物描写の上手さが光ります。
私が好きな、というか、印象的なシーンに、
早織が保利を罵倒するシーンがあります。
「あんた火事になったガールズバーに居たそうだけど、火付けたのあんたじゃないの!?」
的な事を言います。
これは根も葉もない事実無根なのですが、
堪忍袋の緒が切れた早織が、
聞きかじった噂を根拠に保利を詰る場面です。
それまでは、
勘違いとは言え、湊の証言を信じた上での、
彼女なりの真実、正義の追求で、学校側と戦ってきた、
これは、
実際は、意識せずに間違いを起こしていたのですが、
その保利への罵倒は「未必の故意」
つまり、
噂が嘘だろうと、
相手を傷つける為なら構わないという悪意でもって放たれた言葉である点です。
言い換えると、
正義を信じての行動であっても、
それは、必ずしも全て、正しい行動にはならないという事にも繋がっているのでは?
正しさの中に、いくつかの間違いが混入し得るという事を表現しています。
本作では、
他にも、噂、というか、ふと聞きかじった事を思わず口にする事で、
事態が悪化する場面が、もう二つあります。
それは、
保利が彼女から聞いた「シングルマザーだから」と、
湊が依里から聞いた「豚の脳」です。
いずれも、事態の混沌を招く事になり、
安易に、他人の言動をインストールするのは悪手だと
本作では描写しています。
もう一つ、
本作で印象的なのが、
猫の死体を保利に告げ口した女の子です。
彼女は、印象的な場面に、
ちょくちょく登場します。
保利が、タンバリンの片付けを湊に頼んだとき、
付き添いをその女の子に頼みますが、
その子は、
「依里も音楽委員だから」と言って、
湊が依里と一緒になるように仕向けます。
また、
絵画の授業(?)中、
からかわれている依里ですが、
その女の子に雑巾が飛んできた時、
彼女は、
知らぬ顔の半兵衛を決め込む湊に、
その雑巾を投げつけます。
これらの描写から、
この子は、
湊と依里が実際は仲良しだと知っており、
それどころか、
湊自身の好意にすら、気付いているのかもしれません。
それなのに、
依里が、猫にかまっていた(?)的な事を、
保利に告げ口したのは何故でしょう?
ニュアンス的には、
依里が猫を苛めて、殺してしまったと捉える事も出来ますが、
もしかして、
依里に心の悩みがある=いじめられている
事を暗示したかったのかもしれません。
まぁ、しかし、
保利はそのイジメが、
湊がやっていると勘違いした為に、
更なる事態の混沌を招くのですがね…
そして、ラストシーン。
台風一過、
二人は晴天の下、解放感と共に走りますが、
このシーン、
果たして現実でしょうか?
もしかして、
真のエンディングは、
早織と保利が廃電車の中で
窒息した二人の死体を発見する場面なのかもしれません。
あの二人が辿り着いた境地は、
宇宙と時間が巻戻って、
新しい世界が生まれた先の時間軸なのでは?
そんな事も考えちゃうエンディングでしたね。
是枝裕和監督と言えば、
様々な形の「家族関係」を描く映画監督であり、
それが、作品作りのテーマになっていると思います。
とは言え、
前二作の
『真実』や『ベイビー・ブローカー』は、
自分の持ち味に甘んじて、
その安全圏からの逸脱が観られなかったのが、
物足りない印象でした。
本作『怪物』においても、
各個人の事情による「家族関係」は描かれています。
しかし本作では、
「個人の様々な事情」=自己保身が
様々にぶつかる事で、
事態の混沌が招かれる様が描かれ
「家族関係」「自己保身」という小さな範囲内の関係が、
「外の社会」=他者との相反を招くという、
「その先」が観られた事に、
監督自身の進化が見られました。
これは恐らく、
坂元裕二氏の脚本に拠るところも大きいと思います。
坂元裕二は、
数多くのTVドラマや、
映画『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2004:共同脚本)
『花束みたいな恋をした』(2021)など、
私が普段絶対観ないジャンルの作品を多く手掛けています。
しかし、
だからこそ、
ジャンル外の目線の導入により、
客観的に、是枝裕和監督が、
「家族関係の、その先を描く時期」であると直感し、
そういう脚本を書いたのかもしれませんね。
そう言った意味で、
是枝裕和監督の新境地が観られた『怪物』。
『羅生門』の、
そして、
「家族関係」の、その先の物語として、
中々、面白いと思うのですが、どうでしょうか。
あと
カンヌ国際映画祭で、
クィア・パルム賞を受賞したというニュースが事前に流れましたが、
鑑賞後に思ったのは、
おい!!
重大なネタバレじゃねぇか!!
と、思いました。
ちゃんちゃん
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