地方都市に暮らす家内更紗は、15年前、10歳の時「女児誘拐」の被害者として騒がれた過去を持つ。
世間的には色褪せていても、ネットで簡単に調べる事が出来、バイト先のファミレスの同僚や、恋人の中瀬亮にも彼女の過去は筒抜けであった。
ある日、ふらりと立ち寄った深夜カフェ。相手は気付いていない様だが、そこのマスターは、事件の「ロリコン犯人」として知られる佐伯文であった、、、
監督は李相実(リ・サンイル)。
監督作に、
『スクラップ・ヘブン』(2005)
『フラガール』(2006)
『悪人』(2010)
『許されざる者』(2013)
『怒り』(2016) 等がある。
原作は、凪良ゆうの小説『流浪の月』。
出演は、
家内更紗:広瀬すず
佐伯文:松坂桃李
中瀬亮:横浜流星
谷あゆみ:多部未華子
安西佳菜子:趣里
家内更紗(10歳):白鳥玉季 他
近代日本を震撼せしめた凶悪犯罪の一つに、
「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」(1988~1989)があります。
犯人は「宮﨑勤」。
4人の幼女を誘拐、殺害したシリアルキラーであり、
死刑判決を受け、2008年に執行されました。
マスコミに向けた犯行声明や、
被害者宅に送り届けられた「骨」、
逮捕後、自宅から発見された大量のビデオテープなど、
犯人の特異性のすさまじさにより、
当時の世間に与えた衝撃は計り知れず、
暴力的、性的、猟奇的な犯行と、
犯人の大量のビデオテープのコレクションから、
オタク=ロリコン=性的凶悪犯罪者予備軍
という世間の認識を形成した事件と言えます。
最近は、「クールジャパン」とか言われて、
オタク文化にも、
それなりに市民権が与えられていますが、
それでも、
ロリコンが蛇蝎の如くに嫌われ、
オタク文化が好きな人間は精神的に未熟であると認識されているのは、
その事件の影響が、
日本人の心の中に、
消えないトラウマとして深く影を落としていると思われます。
つまり、
本作『流浪の月』は、
日本人のトラウマを抉る設定に、
敢えて挑戦した意欲作と言えます。
根暗そうな大学生が、
10歳の少女を家に呼び込む。
犯人は逮捕されるが、
15年後、
再開した二人が交流する。
宮﨑勤の事件を記憶している人間なら、
設定を聞いただけで、卒倒するレベルの配慮の無さ。
ロリコンって、
凶悪犯罪者だろ!?
(元)被害女児と交流するとか、
ストックホルム症候群みたいな感じで、
何より、
意味不明で気持ち悪いだろ!?
こういう拒否反応を呼び覚ますのが、
世間一般の常識的な考えだと思われます。
こんな地雷確定の作品、
ならば、何故、敢えてこんな設定を持ち出したのか?
そこに興味が湧くというのが、
人間の、猫をも殺す、
下世話な好奇心の罪深さよ。
で、本作を鑑賞した感想はどうだったのかと言いますと、
別段、
設定のセンセーショナルさを強調している訳では無く、
さりとて、
設定を上手く扱っており、
テーマ的には、
自己嫌悪と劣等感に苛まれる、
傷付いた魂の物語
なのだと言えます。
過去に起きた事件。
それは、今も影を落とし、
家内更紗、佐伯文のそれぞれの人生に影響を与えています。
作品自体に、
性的な描写はありますが、
それは、子供を対象としたものでは無く、
その点は、先ずは一安心。
又、
犯罪を助長するタイプの作品でも無く、
まともな倫理観を持って、
気を付けて制作したものだと理解できます。
女児、
誘拐犯
というワードの忌避感はハンパ無いですが、
作品として見た場合は、
ちゃんと、テーマに添って作られているので、
単に、炎上商法を狙った作品では無いという事です。
又、
設定がセンセーショナルであるので、
この物語が、何処に着地するのか?
その展開の行方も、
本作の気になる所です。
設定の特異さに目が行きがちですが、
人間を描いたドラマとして、
ちゃんとまともに作られた作品。
興味があるならば、
鑑賞する事をオススメします。
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『流浪の月』のポイント
劣等感と自己嫌悪を抱えた者の物語
センセーショナルな設定の着地点の行方
印象と実際の違い
以下、内容に触れた感想となっております
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印象と実際の違い
本作で主演を演じた広瀬すずと言えば、
今も思い出されるのは、
TV番組、『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー、
「新・食わず嫌い王決定戦」においての暴言で炎上したイメージがあり、
元気なタイプや、
本作のネクラで引っ込み思案なタイプというより、
ヤリマンビッチみたいなイメージが根強いのですが、
世間的は、どうなのでしょうか?
それはそれとして、
本作『流浪の月』は、
女児誘拐事件の被害者である家内更紗と、
その犯人の佐伯文が、
事件の15年後に再開し、
心の交流を果たすといった内容。
単に、
予告篇を観ただけの印象では、
そんな、
ストックホルム症候群を肯定するような、
気持ち悪い事が許されるわけが無い!
と、
罵倒を受ける可能性のある設定です。
とりわけ、
宮﨑勤の事件を知っている世代ならば。
とは言え、
逆に、
こんなセンセーショナルな設定を、
どう、物語として料理するのか?
その点も興味があって、
原作未読で、何の知識も無しに、
私は本作を観に行きました。
以下、オチまで触れた内容の感想となっております
果たして、本作は、
そういう「世間一般の常識」を逆手に取った、
ある意味、
ミステリ風味の作品と言えます。
女児誘拐事件と思われていた、
15年前の事件。
真相としては、
両親が居らず、親戚宅に居候する家内更紗は、
その先で性的虐待を受けており、
その避難として、
当時大学生だった佐伯文宅に逃げ込んだ形でした。
しかし、
世間的には、「女児誘拐事件」であり、
佐伯文は少年院に入れられる事になります。
故に、
家内更紗としては、
佐伯文に悪感情は無く、
寧ろ、自分の都合に巻き込んだという負い目を持って、
苦しい人生を生きていました。
一方、
佐伯文の方にもトラウマがあり、
それは、
母親が、庭の苗木が未成熟だった事を理由に、
失敗だと引っこ抜いた事でした。
それの、何がトラウマなの?
と、作中は疑問に思うのですが、
ラストで明かされた真相として、
佐伯文は、
男性器が未成熟のままであるという、
身体的特徴が明かされます。
未成年であった15年前は、
恐らく「未だ、成長の余地あり」と判断され、
家の中に家内更紗を匿っていたという行動も、
他人から見たら紛れも無い「誘拐」であり、
犯罪と判断された経緯があるのでしょう。
しかし、
現代の佐伯が、
逮捕後、即、解放されていた状況を鑑みるに、
先ず、
一緒に居た女児の安西梨花が、
寧ろ、母親の育児放棄の方に問題があった点、
家内更紗が成人していた点、
で、おそらく、
警察での身体検査で性器を見られ、
「あ(察し)」と、
15年前も含め、判断された点があげられると思われます。
15年前、
警察も、マスコミも、
家内更紗の家庭内での性的虐待に対処、配慮しなかった。
本人同士の主張は考慮されず、
世間的な、表面での判断こそ、絶対の事実として公式認定され、
その後、二人は、
可哀想な性的被害者、残念な過去を持つ女、
ロリコン変態野郎
として、
そのレッテルを剥がせずに、生きて行く事を強制されます。
そして、15年後。
過去の事件を記憶している人間は、
「佐伯文がまたやった!」
「元、被害女性と付き合っている!?」
「元被害女性が、佐伯に女児をあてがう!?」
という週刊誌のマスコミ報道を、
何の疑問も持たず鵜呑みにし、
「キタ!!叩いてやれや!!」とばかりに、
批判を開始します。
宮﨑勤の事件を知る人間なら、
テンプレ反応として、
ロリコン=凶悪性的犯罪者は、
唾棄すべき相手として認識する事になります。
そして本作は、
そういう「認識」を逆手に取り、
鑑賞者自体の「レッテル貼り」「偏見」を、
咎めるのです。
どうせアンタも、
佐伯文を「有罪」だと、思っていたのだろう?と。
どの様な思いで、
何をやっても、
世間は、
前知識、第一印象としての「レッテル」で、
人間を判断しがちです。
そして、その認識は、
中々、覆る事はありません。
本作はそういう、
自ら収集・体験した一次情報に拠らず、
他人の言説や噂を判断材料にする事の危険性、
その「レッテル貼り」の非情さを表しています。
それこそ、
ラストの衝撃は、
180度世界観が変化する程のオチでした。
本作で描かれるのは、
そういうミステリ的なテーマを大オチとして置きつつ、
人間関係において、
表面上のみで判断する事の危うさを描いているのです。
他にも、
佐伯文が、
彼の過去を知った、彼女の谷あゆみに、
「俺はロリコンだ」
「大人の女性でも大丈夫か、試した」
「利用してご免」と言い放つシーンがあります。
これらの台詞は勿論、
表面的には大層な言葉ですが、
実際は、傷付いた谷あゆみを敢えて突き放す事で、
彼女に、累が及ばないように配慮しているのです。
又、
逃げ場が無い女性ばかり選ぶ中瀬亮は、
DVクソ野郎で、
家内更紗を「可哀想な女」として扱います。
家内更紗は
「私、可哀想な女じゃないよ」と言いますが、
その彼女の方も、
中瀬亮に、意識して「感謝している」と良い、
唯々諾々と、
中瀬亮の理想(=世間一般のレッテル貼り)に、
従っていた感があります。
何故なら、それが、楽だから。
家内更紗は、
表面的には被害者として認識されていますが、
その実、
唯々諾々と、その認識に従う事で、甘んじた人生を送り続けており、
それが、彼女の人生、人間関係を蝕んでいるとも、
描写されています。
人間、
「人は見た目が9割」と言った書籍がある位、
第一印象が大事であり、
それが覆る事は中々ありません。
また、
それ以外でも、
長年の付き合いと体験によって得た印象であっても、
他人の本質というものは、
覆い隠されている場合もあります。
人間関係や、
相手に対する認識というものを、
フラットに判断するのは難しいです。
本作は、
そういう、
ディスコミュニケーションを描いた作品であるのです。
しかし、
故に本作『流浪の月』のラストには、
哀しいながらも、救いが見られます。
人間は、
自分をさらけ出す事で、
本当に、理解し合える相手に出会えるのかもしれません。
世間一般の評価よりも、
結局は、
そういう相手と共に居られる事が、
人生の、真の安寧と言えるのではないでしょうか。
コチラが、凪良ゆうの原作小説です
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