映画『サマー・オブ・84』感想  夏の終わり、それは即ち、少年時代の終わり!!

1984年、オレゴン州イスプゥィッチ。世間は少年を狙った連続殺人に湧いていたが、地元の子供達は気にせず夜中の鬼ごっこに興じていた。その最中、デイビーは隣に住む警察官・マッキーの家中に、少年が居たのを目撃。その少年こそ、連続殺人の最新の被害者だと知ったデイビーは、仲良しの4人組とマッキーを見張るのだが、、、

 

 

 

 

監督はRKSS
フランソワ・シマール、
アヌーク・ウィッセル、
ヨアン=カール・ウィッセルの3人組ユニット。
「ROADKILL SUPERSTARS」の略。

短篇作品を製作後、
長篇の『ターボキッド』(2015)を発表。
本作は長篇第二作目。

 

出演は、
デイビー・アームストロング:グラハム・バーチャー
トミー・’イーツ’・イートン:ジュダ・ルイス
カーティス・ファラディ:コリー・グルーター=アンドリュー
デール・’ウッディ’・ウッドワース:カレブ・エメリー

ニッキー:ティエラ・スコビー

マッキー:リッチ・ソマー 他

 

 

台風の影響で、秋雨前線が発生、
ここ2、3日にて、
グッと気温も低下、
夜には、秋の虫の演奏会も始まり、
過ごしやすくなりました。

今年は梅雨入りも遅かった影響もあり、
夏が、極端に短い年でした。

 

年により、
夏が長かったり、暑かったり、
色々とある様に、

人生における夏とも言える、
少年時代の長さも人それぞれです。

 

そう、本作『サマー・オブ・84』は、

少年時代に遭遇する、
ジュブナイル・ホラーとも言える作品です。

 

1980年代と言えば、
ある意味、ハリウッド映画の全盛期とも言える時代。

そんな時代に発表された、
数々のジュブナイルものの名作、

スタンド・バイ・ミー』(1986)や、
『グーニーズ』(1985)、

また、スラッシャー(殺人鬼)ものの、

『13日の金曜日』(1980)
『エルム街の悪夢』(1984)

などが公開された時代です。

 

本作は、
それら、ジュブナイル系、スラッシャー系の作品の影響を受け、
そのテイストが融合した作品。

少年時代の一夏の冒険と、
殺人鬼と対峙する少年の恐怖を描いた作品なのです。

 

 

同じテイストの作品に、
IT ”それ”が見えたら終わり』(2017)という近年のヒット作がありました。

「IT」の方が、
ホラーテイストを前面に出しているのに対すれば、

本作は、
ジュブナイルテイストを前面に出している印象ですね。

まぁ、元々、
『スタンド・バイ・ミー』も『グーニーズ』も、
若干、ホラー要素を含んでおり、

少年の一夏の冒険は、
ホラーと相性が良いのだと思います。

 

1984年と言えば、
スマホどころか、
家庭用ゲーム機すら無かった時代。

それでも、

トランシーバーで友人達と連絡を取り合い、
チャリンコで爆走し、
鬼ごっこやボウリングに興じ、
隠れ家でエロ本の回し読みをして、人生を謳歌していました。

そんな15歳の少年達にとって、

殺人鬼(?)と思われる、
近所の警察官の家を見張るという行為は、
これ以上無い程のエキサイティング!!

いわば、
「禁じられた遊び」とも言える行為に熱中する少年達が、

その探偵ごっこの果てに、
何を見つけるのか?

 

1980年代の、
都市部でも無く、田舎でも無い、
郊外の新興住宅地という、
何処か、平和で、牧歌的な雰囲気を漂わせる場所が、本作の舞台です。

しかし、映画の冒頭で、デイビーは言います。

Every SERIAL KILLER lives next door to someone.
(連続殺人鬼も、誰かの隣人だ)と。

表向きは「愛想の良い隣人」「幸せな家庭」でも、
その本心や、実際の家庭内では、何が起きているのか分からない、、、

 

夏の終わりとは、
少年時代の終わり。

当時のファッション、雰囲気、
そして、ピコピコの電子音に乗せて描かれる『サマー・オブ・84』は、

観客に鮮烈な印象を残す、
ジュブナイルものの名作と言える作品なのです。

 

 

  • 『サマー・オブ・84』のポイント

少年の一夏の冒険

殺人鬼も誰かの隣人

少年時代の終わり

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 『スタンド・バイ・ミー』との共通点

ジュブナイルものの名作映画として『スタンド・バイ・ミー』の名が挙げられますが、

様々な映画や、当時の文化のオマージュが多い、本作『サマー・オブ・84』は、
そのスタンド・バイ・ミーの影響を濃く受けています。

 

先ず、
どちらも4人組

ドラクエのパーティーも4人組が多い様に、
4人というのは、とかく、バランスが良いのです。

その構成は、
オタク、不良、眼鏡、太っちょ、
という点も共通。

 

本作、
その4人組という点を利用して、
主人公のデイビーを、

図書館ではファラデイと、
庭を掘る時はイーツと、
地下室に降りる時は、ウッディと、

各場面で、仲良しメンバーと個別に絡ませています。

2時間で全員に見せ場を作るなら、
メンバーは、4人位がベストなんですよね。

 

また、
どちらも少年の一夏の冒険を描いていますが、

それが「死」と関係しています。

『スタンド・バイ・ミー』は死体探し、
『サマー・オブ・84』は、連続殺人鬼捜し、ですね。

 

そして、
冒険が終わった後には、
少年時代が幕を下ろす
それも、この2作は共通しているのです。

 

  • 練られた脚本の面白さ

本作、
80年代にオマージュが捧げられているだけあって、
台詞や小道具、ポスターなど、
様々な場所に、小ネタが仕込まれています。

NIKE のTシャツとか、adidas のTシャツとか、

スター・ウォーズのイウォークは熊か、宇宙人かとか、
(因みに、イウォークのスピンオフ作品である、TV映画の『イウォーク・アドベンチャー』は1984年、11月に放映されたそうです)
そんな事より、『グレムリン』(アメリカでは、1984年6月公開)観に行こうぜ、と言ったり、

ラスト近く、
膝を抱えるデイビーの背後に「sorry」という題名の本があるのは、
『エクソシスト』(1973)の1シーンの背景に、「TASUKETE」という文字があったのを思い出したりします。

色々と、気付けたら、
面白い仕込みが入っているんですよね。

 

そういう仕込みに目が行きがちですが、
本作、
ストーリー展開上の、脚本の仕込み、
いわゆる、伏線も巧みです。

図書館で勉強しているから、ファラデイは真面目であるとか、
イーツの南京錠の解錠テクニックとか、
母を心配するウッディの優しさとか、

これらの、キャラクター上の特徴が、
ストーリーの後の展開に、説得力を与えています。

本作は、全ての展開、描写に、無駄が無いのです。

 

ウッディが、車を無免許で運転するシーンがあるからこそ、
その後、
ラスト近くにて「パトカーを運転して逃げろ」という台詞を、
違和感無く受け入れられますし、

イーツの家庭環境の事を考えると、
彼が、祭りに行かず、
バス停で、孤独に音楽を聴きながら座っているシーンに、
何とも言えない感情がわき起こってきます。

 

その上で、私が最も巧みだと思ったのが、
真犯人が解明するシーンです。

 

 

以後、作品のオチに触れた感想となっております

 

 

 

本作のクライマックスのシーン、
マッキーの家の地下室へ向かう場面の、そのメンバーは、

デイビー、ウッディ、ニッキーです。

本作、観れば分りますが、
怪しい人物は、
本命マッキー、
対抗ウッディ、
大穴ニッキー、なんですよね。

 

ウッディは、
連続殺人鬼が、新たに犠牲者を出した夜、
デイビーの家に来なかった、
つまり、アリバイが無いという描写がありました。

如何にも、怪しく、
「犯人は誰だ?」という目線で観ている観客にとっては、
「仲間が実は、犯人だった」という展開は、あり得ると考えられるんですよね。

鬱気味の母親の為に、
何か、恐ろしい事をしているかも、
そう、勝手に想像してしまうのです。

 

ニッキーは、
デイビーにとって憧れの、女神ポジションのキャラクター。

思春期の少年にとって、
一番好きな人物を神聖化する傾向、
砕けて言うと、
性欲バリバリの少年が、オナネタにすらしないという、
理想の女性像(ヒロイン)として描かれています。

しかし、
主人公のデイビーと親密になり、
大切に扱われれば、扱われるほど、
観客としては、その反動が恐ろしいもの。

殺されるか、もしくは、殺人鬼そのものではないのか?
と、思ってしまうのです。

留守中の家に忍び込んだとき、
偶然出会った、というのも、
如何にも怪しく思えますしね。

 

斯くして、
マッキーの地下室に、
デイビー、ウッディ、ニッキーの3人で侵入するという行為は、

怪しい3人の内、
誰が真犯人か、一度に解明するという、
クライマックスシーンとなっているのです。

マッキーが犯人だと判明するかもしれず、
もしかして、
ウッディなり、ニッキーが犯人と判明し、
逃げ場の無い地下室にて、デイビーの目の前で友人なり、憧れの女性なりが殺されるという展開もあり得るのです。

 

  • 子供時代の終わり

しかして、判明する真犯人は、マッキー。

作品の冒頭、
犠牲者を目撃したというデイビーの主張は、
正しかったのですね。

 

地下室に侵入する描写、
カメラの明かりを頼りに、不気味な空間に忍び込む様子は、
『REC/レック』(2007)のクライマックスを彷彿とさせるもの。

突如の主観視点が、観客の恐怖を盛り上げます

南京錠を解錠した、その先には、
子供部屋が存在します。

しかし、
イプスウィッチは新興住宅地であり、
大人であるマッキーの子供時代の部屋がある事自体、異常な状況

そこから、更に秘密部屋へと進むと、
腐りかけの死体と、
監禁されている少年を発見するのです。

 

このシーンでも、充分にゾッとしますが、
血の気が引くのが、次のシーン。

マッキーが、どうどうと、家中に飾っていた家族の写真。

それは、マッキーの親戚の写真では無く、
全て、連続殺人の犠牲者となった人物達の写真なのです。

そして、その中には、
デイビー家の写真も混じっており、
デイビー自身、標的だったと示唆されています。

作品の冒頭、
デイビーは、マッキーの手伝いで家に入り、
地下室に降りた時、
「ガン!ガン!」という音を聞きます。

後から考えると、
それは、監禁されている犠牲者が、
自分はここに居るというSOSのサインだったんですね。

そして、
家族の写真を、どうどうと見せている所から、
近々、デイビーを殺すつもりだったのだとも、推測されるのです。

 

さて、本来なら、
それで目出度し目出度しですが、
それで終わらないのが、ホラー映画。

『13日の金曜日』よろしく、
衝撃の結末が待ち受けています。

 

警察に手配されながら、
デイビーの家に忍び込んだマッキーは、
デイビーとウッディを拉致、

ウッディを殺害し、
デイビーには、呪いの言葉をかけて逃亡します。

 

この「呪いの言葉」ですが、

マッキーは、デイビーに言います、
「俺の人生を奪いやがって!」と。

観ている方は、
「イヤイヤ、お前、散々人を殺しておいて、そこは逆恨みかよ!」とツッコみますが、
こういう台詞こそ、マッキーがサイコパスであるという証左なんですよね。

そして、
「今は生かしておいてやるが、いつか、お前を殺しに必ずやって来る」
「俺が来る日を怯え、いつも背中を気にして生きるがいい」
と言って、去って行きます。

何とも、後味の悪いエンディング。

 

呪いというものは、別にファンタジーでは無く、

人間、
幼少の頃に受けた罵倒、

親や同級生、教師からの、
いわれの無い、心の無い一言が、
その後の人生に、長く影を落とす事も、多々あります

臭いと言われて、潔癖症になったり、
デブと言われて、拒食症、又は、過食症になったり、ですね。

 

本作のマッキーの「呪いの言葉」も、
その類いの言葉。

その意図は、
デイビーの人生を暗くするという目的もありますが、

何故、マッキーがそんな事を言ったのか?というと、
それは、

デイビーの子供時代を無限に終わらせない為なのです。

 

シリアルキラー・マッキーの標的は、
主に、12~16歳の少年。

この年代の少年を狙うのに、
どんな意味があるのでしょう?

それは、本篇では説明されないので、真相は分かりませんが、

しかし、
子供部屋をわざわざ再現しているところから、

マッキー自身、
その年頃に、何か、トラウマがあったのだと推測されます。

 

社会的には、人当たりの良い、
良き隣人の警察官ではありますが、
しかし、
地下室という、その深層心理の奥には、
子供時代というトラウマが潜んでおり
そのトラウマの壁を越えると、
残忍な殺人鬼の顔が覗くのです。

また、警察に対し、
挑戦状的な文書を送っている事から、
反社会的な行為をしていながら、それを誇るかの様な、幼稚な自己顕示欲が垣間見られます。

 

そうです、
マッキー自身、
彼の子供時代に、呪いの様に囚われているのです。

そして、
同じ事を、デイビーにして、
自分と同じ穴の狢にしようとしている
のです。

 

実に、後味の悪い結末ですが、

しかし、
この呪いは、実はデイビーには効かないのですよね。

 

少年が大人になるという事。

それは、
成功、挫折、童貞の卒業、冒険、
これらの、通過儀礼(イニシエーション)を経て辿り着く事が多いです。

本作の「連続殺人鬼捜し」という冒険それ自体が、
デイビーの通過儀礼

デイビーは、

自己の意思を貫いたという成功、達成感と、

人が、世間に見せない、影の部分を暴くという行為、
その代償を否応無く受け入れなければならないという、
挫折をも、同時に得ているのです。

こういう困難に見舞われた、呪いをかけられた、
挫折を経験したという事自体が
マッキーの意図とは逆に、

彼の少年時代の終わりを告げるのですね。

 

また、作中、
ニッキーが「彼はもう大人」と、友人達に言う台詞で、
実際はどうあれ、
デイビーは、もう童貞では無いと示唆させる事で、
世間的には、既に童貞では無い、
つまり、少年時代が終わっている、

こういう「他人の目」が、
本人に自覚を促す事にもなりますし、

ストーリー的にも、
この後の展開で、
少年時代が終わりを告げる事を示唆しているのです。

 

世間体と、
家庭内での顔は違う、

誰でも、表には見せない、悩みなり、苦悩なりがあります。

イーツは両親の関係に悩み、
ウッディは、鬱気味の母親に心を痛ませ、
ニッキーは、両親の離婚に衝撃を受けています。

本作は、
そういうプライベートを、安易な好奇心で暴く事の危険性をも、
表しているのだと思います。

 

本作のラストシーンは、
冒頭のシーンと、対になっています。

再び、語られる、
本作のテーマとも言えるモノローグ、
「Every SERIAL KILLER lives next door to someone.」
(連続殺人鬼も、誰かの隣人だ)。

冒頭では、
にこやかで、平和に見えた、新興住宅地。

しかし、
隠されているものを暴くという行為と、その代償を払うという、
通過儀礼を経て、子供時代が終わったデイビーの目から見ると、

同じ景色が、

笑いながら手を振っていた住民の家が、
立ち退き、売り物件になっていたり、

友人(であった)
イーツの家から、木を運んでいるシーンに出くわしたり、

これは、仲良しグループがたむろしていた、
ツリーハウスの解体を意味しているのかもしれません。

これも、少年時代の終わりを意味し、
また、その行為をデイビーが外から眺めているという点に、
デイビーと、イーツ、ファラデイとの関係が変わってしまっている事を推測させます。

そして、
引っ越してゆく、ニッキーの姿を目撃したり、
即ち、
子供時代の憧れの終焉を意味しています。

 

同じ景色に、
その裏があると知る

その事を知る事で、
デイビーが子供時代に終焉をもたらしたのですね。

 

  • コリー・フェルドマン

さて、ここまで観て行くと、
何となく、
オチを含めたデイビーのキャラクター造型に、
コリー・フェルドマンの影響があるような気が、
ないでもありません。

コリー・フェルドマンは、
『13日の金曜日 完結編』(1984)
『グレムリン』(1984)
『新・13日の金曜日』(1985)
『グーニーズ』(1985)
『スタンド・バイ・ミー』(1986)

など、
1980年代を代表する、
ノスタルジー、
スラッシャーホラームービーに多く出演していました。

 

『グーニーズ』では、ちょっとワルぶったお調子者、
『スタンド・バイ・ミー』では、家庭に問題のある眼鏡キャラ、
『13日の金曜日 完結編』では殺人鬼と対峙し、
『新・13日の金曜日』では、過去のトラウマに悩むキャラ(の、少年時代)
を演じました。

こうして、コリー・フェルドマンの出演作と、その役を並べて見ると、
何となく、
本作のストーリーそのもののような気も、
しなくもない

そう、私は思うのですが、どうでしょうか?

 

 

 

1980年代の風俗、文化を再現しつつ、

そのノスタルジックな感情を喚起しながら、
扱う題材はホラーという、
『サマー・オブ・84』。

誰もが経験のある、
少年時代の冒険と、挫折。

美しく、楽しく、甘く、そして、苦い経験の記憶。

観るものの感情を揺さぶるからこそ、
本作は、
新たなノスタルジー・ホラーの名作だと、
言えます。

 

 

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